§第二章 今を生きる§ 【第一節 羨望】 あれは1年前の事だ。ここは獄界にある獄王の宮殿……その中で、僕はまだ10年前からの苦しみに苛まれ続けていた。 かつて、ルナリートの兄ハルメスの剣によって受けた深い胸の傷は僕の体の自由を奪った。起き上がる事は愚か、呼吸をするのにも苦痛が伴う……だが、意識は常に明瞭だった。それは……エファサタンとしての生命力、そしてまだ死ぬ事を許されない定めが僕を生かしているのかもしれない。頻繁に襲い来る死の恐怖、耐え難い苦痛と戦いながらも僕は確かに生きている。 ロードとサタンは戦い続ける定めだ。相手を滅ぼし、世界を一つにする為に……そう、僕が滅ぼすべきエファロードはたった一人だ。シェドロット、ハルメスが死んだ今残るはルナリートのみ……だが、滅ぼした先に待つのは果たして本当に望むべき世界なのだろうか? いや、それを僕は考えてはいけない。エファサタンという存在意味すらも否定しかねないから…… 「コンコンコン」 漆黒で塗り固められた僕の部屋……ベッドを照らす薄明かりの向こうで扉を叩く音が静かに響く。 「(入れ。)」 僕は言葉を発する事をせず、扉の向こうに意思を送った。この能力は、天使達が使っていた神術『転送』の原理を魔術に応用したものだ。いや、正確にはエファサタンも太古より使用する事が出来たが、獄界の魔でそれを知る者がいなかっただけだ。 「失礼致します」 現れたのは、キュアという女の魔だ。彼女は僕とほぼ同時期に生まれた幼馴染で、昔はよく一緒に遊んだものだった。それも僕が1000歳になって、獄王の息子としての教育が始まるまでの話だが……あの頃が一番楽しかったかもしれない。 「ESS(Energy Sphere of Satan)と花をお持ちしました」 「(いつも言っているけど、そんな堅苦しい言葉はやめてくれよ。僕は昔みたいに普通に話したいんだ。)」 「いえ……申し訳ありませんが、不可能です!私は普通の魔で、貴方様は獄王様の御子息。昔のような度重なる無礼はとても許されるものではありません!」 魔の中では色の薄い肌と、耳が隠れる位の短い黒髪を揺らしながら彼女はそう言った。 「(はぁ……こうやって、僕が獄王の息子としてではなく普通に話せるのはキュアぐらいなんだけどな……グッ!)」 その瞬間いつもの激痛が胸から全身に広がった!最初に針で刺されるような痛みが駆け抜けて、次には痺れが訪れる! 「フィアレス様!」 キュアは叫びながら僕にESSを使用した。これはかつての神のように、父である獄王が闇合成によって創り出す獄界で生きる者のエネルギー源。だが…… 「ゲホッ!」 痛みは少しマシになったが、痺れは取れない。この状態になると、後は耐えて待つしかないのだ。 数時間……が経過しただろうか?意識が空中に浮いているような感覚の中、ようやく僕の感覚が通常に戻ってきた。 「フィアレス様!……意識がお戻りになられましたね!大丈夫ですか?」 「(……何とか大丈夫だよ。いつも悪いね)」 僕はぎこちなく微笑んだ。彼女は、10年前に僕が傷付いて獄界に戻った日から誰よりも心配して毎日看病に訪れてくれている。しかし……獄界にいる他の魔は僕に敬意を払うが……心配などはしない。根本的に僕を恐れており、僕の力に対する恐怖で命令に従っているだけだとこの9年で思い知らされた。苦しむ僕に対して、何も言わず恐れずに僕の傍にいたのはキュア一人だけだったからだ。 「いえ、これが私の役目ですからお気になさらないで下さい!」 「(ありがとう……それじゃあ、いつも通り現在の人間界について聞かせてくれ。)」 僕は毎日こうやって人間界の様子を聞く。ハルメスによって魔が人間界に行く術は閉ざされたが、魔術を用いて人間界を見る事は可能だ。 「わかりました。人間界は……いつもと変わらず平和そのものです。また、技術レベルも向上しており……特に蒸気機関と電気の進歩は目を見張るものがあります。勿論、そのレベルはまだ獄界には及びませんが。しかし、このペースで進歩していけば近い将来獄界に並ぶのは間違いないでしょう」 キュアは事実を包み隠す事無く話す。僕が嘘や回りくどい事を嫌うのを知っているからだ。 「(なるほど……僕が完治したら、獄界の科学技術も向上させる必要があるな。それで……ルナリートはどうなってる?)」 僕は一番気がかりな事を訊いた。 「ルナリート・ジ・エファロードは……幸せに暮らしています。妻と娘に囲まれ、また人々に慕われながら……人間界はルナリートの指導と保護の下で安心しながら発展を遂げているようです」 「(そうか)」 僕はそう言いながら、目を閉じて下唇を弱々しく噛んだ。僕はルナリートが憎い……この体が動くなら、今すぐ殺しに行きたい程だ。生命の始まり……いや全ての『知性』の始まりから、エファロードとエファサタンは自分の世界を創り……そしてそれを守る為だけに命を捧げてきた。なのに、ルナリートは自分の幸せの為に生きている。天界を放棄し、天使という存在までも無くした。しかも……生きている場所はかつての中界……天界と獄界の緩衝帯である筈なのに!だが、何よりも許せないのは……ルナリートが一人ではない事だ。ロードとサタンは、常に一人で生きなければならなかった。神はS.U.Nの力を受けて天界を維持し、天使を創り、それでも余る膨大なエネルギーを処理する為に『封印の間』で……獄王は闇の海の力を受けて獄界を維持し、魔を創り……そして『深獄』を封印する為に『断罪の間』で生涯を終えなければならないのだ! でも僕は……認めたくはないが、激しい憎しみの中で羨望の心が強くなっていくのを感じていた。決して弱くは無い思い……ルナリートの話を聞く度に心の奥底が蠢く炎のように疼いて仕方が無いのだ。ルナリートはこの星で唯一、僕と対称となる者……ロードの末裔だ。だからこそ、自分と比較する。自由に……幸せに生きるルナリートと、身動き一つ出来ず……今後、獄王としての力を継承し……その責務を負わなければならない自分とを! そして僕は……『新生・中界計画』が失敗し……それを容認している父であるフェアロットも許せない。中界は天界にも獄界にも属してはいけないはずだ。本来ならば、人間界を中界に戻し……どうしても人間を殺さないのであれば人間を天界に住ませるべきだったのだ。何故、長く続いた三界(天界、中界(人間界)、獄界)を二界(人間界、獄界)に変遷させる事を父は黙って見ていたんだ!? 僕は……体が動かない分、考える時間だけが無限に続いていた。 そして、僕は言葉を発する痛みも気にせず呟いた。 「僕も自由が欲しい……運命などに縛られない生き方をしたい」 その瞬間、キュアは必死で僕を制止しようとする。 「フィアレス様!無理にお喋りになられるとお体に障ります!」 でも僕は零れ落ちる言の葉を止める事が出来なかった。 「……僕は……一人は嫌だ。僕は……生涯の全てを獄界の為だけに捧げる事は出来ない。キュアなら解ってくれるよね?」 僕はゆっくりと首を動かし、彼女の目に視線を合わせた。 「……はい、解ります!フィアレス様が感じてきた孤独……疎外感……少しだけなら……貴方様はいつも皆と同様の扱いを望んでおられました。でも、誰もそう出来なかった。幼馴染の私でさえこんな風に接する事しかできない!」 「……キュアが僕の事を一番理解しているよ」 彼女は僕の事を想って泣いていた。この星で、こんな風に僕を想ってくれるのは彼女だけだ。 ルナリートは、自らが信じる道を生きている。僕は…… 「フィアレス、『断罪の間』へ」 その時、僕の部屋に父の声が響いた。僕は直感する。『時』が訪れたのだと。神と獄王は、生まれる時も死ぬ時も重なるようになっている。それは、生命の始まりから対称として生きてきた運命……いや、存在の証なのかもしれない。ルナリートは9年前に先代の神シェドロットから全ての力を受け継いだ。そして、今僕は動けない体のまま父に呼ばれた。 僕は……父に反対されてでも己の信じる道を行きたい。 それが、例え歴史と責務に反する事であったとしても…… | |
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