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 その晩螢華は、食事を取ってから直ぐにベッドに寝転がった。抗う事の出来ない、急激な睡魔に襲われたからだ。

 

 彼女の意思が眠りに就き、夢が永遠に触れる。

 

 此処は何処なのだろう? 果てし無く広がる平野と湿地、そして森を懐に抱く山々。世界の全てが茜色に染まる夕刻、一人の女の子が丘の頂にある白い石の上で歌っている。

 見た事の無い夢。それでもこれを夢だと判断出来るのは、向日葵畑の夢と同じで、私の体は存在せず、風景を眺める事しか出来ないからだ。まるで映画の観客のように。

 少女の元に誰かが近付いて来た。青年と言うよりは、少年に近い男だ。彼は少女の事を愛しているのだろう。彼の顔には喜びが滲み出している。振り向いた少女も嬉しそうだ。二人は恋人に違いない。

「トワ、そろそろ夕飯にしよう」

 トワと呼ばれた少女は頷きながらも、歌を止めない。少年は「相変わらずだな」と呟きながら、白い石の上に座った。

 トワの歌は素晴らしかった。透明感と伸びがある高音、聴く者の心を穏やかにさせる低音。私はいつの間にか彼女の歌に聴き入っていた。ずっと歌が続いて欲しい、そう思う。

 皓々と輝く月が、静かに昇る。まるで月までも彼女の歌を聴いているかのようだ。

 やがてトワは歌を止めた。一陣の風が二人を吹きぬける。

「ケイ、お待たせ。行こっ」

 二人は手を繋ぎ、丘の麓にある集落へ歩き出した。

「トワは歌が好きだな」

「うん、私はあの石の上で歌うと、どんなに辛い事や嫌な事があっても忘れられるの。私は歌さえあればいいって思ってた。ケイに出逢うまではね」

「俺もそうだ。狩りが上手くなって、絵を描く余裕があればそれでいいと思ってたよ」

 二人が生きている時代は、一万年以上前だろう。風景、人々の服装、集落から推察して。この時代の絵……、どんな絵か気になる。

「ケイ、私をお嫁さんにしてくれてありがとう!」

「こちらこそ、俺の嫁になってくれてありがとう」

 二人は口付けを交わした。若いのに結婚していたのね。

 何故か私は、胸の奥が燃えるような感覚に襲われた。

 

 幾千の星が流れ、幾百の日が過ぎた。

 

 トワはケイとの間に女の子を産み、二人はその子を「ユメ」と名付けた。

 三人は幸せに暮らしていたが、ユメが三歳になった頃、トワは高熱を出して寝込んだ。一週間経っても熱が引かず、日に日に彼女は衰弱していった。

 トワの歌が集落に響かなくなってから二週間。集落の人間は皆、彼女の命を諦めた。それでもケイとユメはずっとトワの傍に居る。

 

 私はいつの間にか、トワの体と一つになり、彼女の苦しみ、想いを全て共有出来るようになっていた。死を間近に控えながらも、彼女がケイとユメをどれ程愛しているかを知り、私の心は引き裂かれそうな痛みに襲われた。

 

「ケイ、ユメ、ごめんね。もっと貴方達の為に歌いたかった」

 消え入りそうな声、それでも二人はちゃんと聞いてくれる。

「……安心しろよ、トワはこの世界から消える訳じゃない。例えトワの体が無くなっても、あの石、丘の上の石と共に眠れば歌い続ける事が出来る。俺とユメはいつだって、目を瞑ればトワの歌が聴こえるから」

 ケイに抱っこされたユメが私に微笑む。

「お母さん、私も寂しくないよ。お父さんが言ってたもん、また逢えるって」

 

 私は消えない。いつまでも、永遠に歌い続ける。

 だから、必ずまた逢おうね。

 

「ありがとう、また……、私の歌を……、聴いてね」

 

 私の意識はトワから離れ、世界の傍観者に戻った。彼女の命が尽きたのだ。ケイとユメはトワの亡骸に縋り付く。

 やがて風景がぼやけ始めた。私が最後に見たのは、白い石の下に埋葬されるトワの姿だった。月華を受け、真っ白な花と共に彼女は眠りに就いたのだ。

 

 私は、はっきりと理解した。

「向日葵の墓」に描かれた白い石、あれはトワの墓標なのだ。

 そして確信した。

 私が見た夢の向日葵畑は、絵に描かれたものと同じだと言う事を。恐らく、絵の少女はかつての私なのだろう。

 私はトワで、あの絵の少女だからこそ、こんな不思議な夢を見るのだ。

 

 夢は表面を撫でる。永遠と呼ばれる大いなる存在の。
目次 第三章-9