8その晩螢華は、食事を取ってから直ぐにベッドに寝転がった。抗う事の出来ない、急激な睡魔に襲われたからだ。 彼女の意思が眠りに就き、夢が永遠に触れる。 此処は何処なのだろう? 果てし無く広がる平野と湿地、そして森を懐に抱く山々。世界の全てが茜色に染まる夕刻、一人の女の子が丘の頂にある白い石の上で歌っている。 見た事の無い夢。それでもこれを夢だと判断出来るのは、向日葵畑の夢と同じで、私の体は存在せず、風景を眺める事しか出来ないからだ。まるで映画の観客のように。 少女の元に誰かが近付いて来た。青年と言うよりは、少年に近い男だ。彼は少女の事を愛しているのだろう。彼の顔には喜びが滲み出している。振り向いた少女も嬉しそうだ。二人は恋人に違いない。 「トワ、そろそろ夕飯にしよう」 トワと呼ばれた少女は頷きながらも、歌を止めない。少年は「相変わらずだな」と呟きながら、白い石の上に座った。 トワの歌は素晴らしかった。透明感と伸びがある高音、聴く者の心を穏やかにさせる低音。私はいつの間にか彼女の歌に聴き入っていた。ずっと歌が続いて欲しい、そう思う。 皓々と輝く月が、静かに昇る。まるで月までも彼女の歌を聴いているかのようだ。 やがてトワは歌を止めた。一陣の風が二人を吹きぬける。 「ケイ、お待たせ。行こっ」 二人は手を繋ぎ、丘の麓にある集落へ歩き出した。 「トワは歌が好きだな」 「うん、私はあの石の上で歌うと、どんなに辛い事や嫌な事があっても忘れられるの。私は歌さえあればいいって思ってた。ケイに出逢うまではね」 「俺もそうだ。狩りが上手くなって、絵を描く余裕があればそれでいいと思ってたよ」 二人が生きている時代は、一万年以上前だろう。風景、人々の服装、集落から推察して。この時代の絵……、どんな絵か気になる。 「ケイ、私をお嫁さんにしてくれてありがとう!」 「こちらこそ、俺の嫁になってくれてありがとう」 二人は口付けを交わした。若いのに結婚していたのね。 何故か私は、胸の奥が燃えるような感覚に襲われた。 幾千の星が流れ、幾百の日が過ぎた。 トワはケイとの間に女の子を産み、二人はその子を「ユメ」と名付けた。 三人は幸せに暮らしていたが、ユメが三歳になった頃、トワは高熱を出して寝込んだ。一週間経っても熱が引かず、日に日に彼女は衰弱していった。 トワの歌が集落に響かなくなってから二週間。集落の人間は皆、彼女の命を諦めた。それでもケイとユメはずっとトワの傍に居る。 私はいつの間にか、トワの体と一つになり、彼女の苦しみ、想いを全て共有出来るようになっていた。死を間近に控えながらも、彼女がケイとユメをどれ程愛しているかを知り、私の心は引き裂かれそうな痛みに襲われた。 「ケイ、ユメ、ごめんね。もっと貴方達の為に歌いたかった」 消え入りそうな声、それでも二人はちゃんと聞いてくれる。 「……安心しろよ、トワはこの世界から消える訳じゃない。例えトワの体が無くなっても、あの石、丘の上の石と共に眠れば歌い続ける事が出来る。俺とユメはいつだって、目を瞑ればトワの歌が聴こえるから」 ケイに抱っこされたユメが私に微笑む。 「お母さん、私も寂しくないよ。お父さんが言ってたもん、また逢えるって」 私は消えない。いつまでも、永遠に歌い続ける。 だから、必ずまた逢おうね。 「ありがとう、また……、私の歌を……、聴いてね」 私の意識はトワから離れ、世界の傍観者に戻った。彼女の命が尽きたのだ。ケイとユメはトワの亡骸に縋り付く。 やがて風景がぼやけ始めた。私が最後に見たのは、白い石の下に埋葬されるトワの姿だった。月華を受け、真っ白な花と共に彼女は眠りに就いたのだ。 私は、はっきりと理解した。 「向日葵の墓」に描かれた白い石、あれはトワの墓標なのだ。 そして確信した。 私が見た夢の向日葵畑は、絵に描かれたものと同じだと言う事を。恐らく、絵の少女はかつての私なのだろう。 私はトワで、あの絵の少女だからこそ、こんな不思議な夢を見るのだ。 | |
目次 | 第三章-9 |