7舞苺が緋月に告白してから、二ヶ月が過ぎた。その間、二人は毎週のように食事や映画鑑賞、ショッピングに出掛けた。だが緋月は、自分から手を繋ごうとはしないし、美術館の時よりも親密になる気は無いようだった。それでも舞苺は常に明るく振舞い、緋月の手を握る。しかし舞苺は気付いていた。緋月は自分を見ているのでは無く、自分の中に雪那を捜している事に。 届かない想いを抱えて毎日を過ごすのが、こんなに苦しいなんて知らなかった。でも、緋月君はもっと苦しいのね。想う人がこの世界に居ないなら、自分がどれだけ頑張っても決して報われないのだから。彼の苦しみを私が減らしてあげたい。その為には、やっぱり雪那さんの事を忘れて貰うしか無いわ。緋月君から彼女が消えれば、きっと私を私として見てくれる。それが出来なくて諦めて、妥協するなら私はお母さんと同じ。だから絶対諦めたりしない。 舞苺はカフェラテを啜りながら、格子窓の外を眺める。真紅の三日月が彼女の目に映った。格子窓の一部に赤い硝子を重ねて、赤く見えるようにしているのだ。 もう直ぐ七月十五日、緋月君の誕生日だ。都合が良い事に、その日は日曜日で学校は休み。出来れば……、ううん、その日に私は彼の恋人になって見せる。 舞苺は、七月十五日に緋月の下宿先に行く約束をした。緋月は、プレゼントは要らないと言ったが、舞苺は内緒で「腕時計」を買った。時は不可逆なので、過去に囚われず未来に向かって生きて欲しいという願いを込めて。 誕生日当日、舞苺はプレゼントと、昨夜家政婦と一緒に作ったアップルタルトを持って家を出た。午後一時に、学校の最寄り駅で緋月と待ち合わせだ。 澄み切った空から、燦々と降り注ぐ光が眩しい。 丁度正午に舞苺は駅に着いた。純白のノースリーブのワンピースを着た彼女は、周りの視線を集めている。だが彼女は全ての視線を無視して歩き出した。 緋月君、ごめんなさい。此処まで迎えに来てくれる約束だけど、最初から私は直接貴方の家に行くつもりだったの。一緒に家に向かう途中で、緋月君の気が変わったら困るから。私が突然貴方の家まで行けば、入ってくるなとは言えないでしょう? 駅から緋月の家までは十五分程の距離だ。緋月はいつも、約束したら十分ぐらい前に来るので、十二時三十五分までは家に居る筈である。舞苺は、脇目も振らずに歩く。 舞苺は緋月の部屋に入った事は無い。しかし、舞苺は緋月の部屋があるマンションの下までは幾度か訪れている。平日の緋月は勉強で忙しいので会う事は出来ないが、少しでも緋月の近くに居たいとの想いからだ。 マンションに近付くにつれて、急速に陽が翳ってきた。厚い雲が空を覆っている。 おかしいわね、天気予報では晴れって言ってたのに。 舞苺は歩みを速めたが、陽の翳りと同様に、雨も唐突に降り始める。滝のような雨だ。舞苺は傘を持っていなかったが、マンションは近くに見えていたので走った。 前方から、紺色の傘を差した男が舞苺に向かって歩いて来る。舞苺は警戒しながら横を通り抜けようとしたが、男の顔が視界に入り足を止めた。 「緋月君!」 「やっぱりな……。何となく早く来そうな気がしてたんだ。それに、もしかしたら傘も持ってないかと思って」 貴方は、どうしてそんなに優しいの? 胸の高鳴りが全身を震わせる。雨に濡れているのに全身が熱い。私は言葉を発する事も出来ず、黙って彼の傘の中に入る。 「舞苺ちゃん、震えてる。寒いんだな。タオルぐらいならあるから、行こう」 舞苺は頷き、緋月に寄り添って歩く。雨のお陰で、目元が濡れているのに気付かれなかった。マンションのエレベーターに乗り、緋月の部屋の前に着いてから、ようやく舞苺は大切な事を忘れているのに気付いた。会って最初に言おうと思っていた言葉だ。 緋月が鍵を開け、舞苺を招き入れる。舞苺がミュールを脱ぎ部屋に上がり振り向く。 「緋月君、十九歳の誕生日おめでとう!」 舞苺は飛び切りの笑顔で、鞄とは別の紙袋に入れた箱詰めのタルトを出す。だが紙袋も箱も先刻の雨に濡れてふやけていた。彼女の表情が曇る。 「ありがとう。嬉しいよ」 舞苺を気遣ってか、緋月はこれまで彼女に見せた事の無い、柔らかな笑みを浮かべて袋を受け取った。 緋月君、そんな顔が出来るのね……。嬉しくて泣きそう。でも笑わなくちゃ。 「ふふ、喜んで貰えて良かったわ」 舞苺は緋月に案内され、ローテーブルの前にある座布団に座るよう促された。だが彼女は濡れているので首を振る。すると緋月は直ぐにバスタオルを持って来て舞苺に渡した。 シンプルな部屋……。男の人の部屋って、もっとごちゃごちゃしているかと思ったけど、全然違う。特徴の無いテーブル、ベッド、本棚、冷蔵庫……。まるで生活感が無いわ。でも、此処で緋月君は毎日勉強して眠ってるのね。あれ? 小さな窓辺に一輪の花がある。グラスに挿した、向日葵。 緋月君は、家の隣に広大な向日葵畑があると言ってた。それ以上は聞いていないけど、きっと雪那さんと其処で長い時間を過ごしたのだろう。この無機質な部屋であの向日葵は、只ならぬ存在感を放っている。どうして向日葵を部屋に置いているの? 決まってるわ。向日葵は緋月君にとって、無くてはならないものだから。雪那さんと同じで。 舞苺はまた震え出した。歓喜の震えでは無い。深い悲しみと、抗し難い嫉妬から来る震えだった。 「緋月君、寒い」 「大丈夫か? 風邪でも引いたら大変だ。毛布を出すよ」 緋月が舞苺に背を向けると、舞苺は彼の服を掴んで制止した。 「ううん、シャワーを貸して。体を温めれば大丈夫だと思う」 「解った。ユニットバスだから狭いけど、我慢してくれ」 舞苺が頷くと、緋月はもう一枚バスタオルを用意した。彼女はそれを受け取り、ユニットバスの扉を開ける。中に入って鍵を閉めた後、彼女は直ぐにシャワーの蛇口を捻った。「ザー……」と言う音が谺した途端、舞苺は声を押し殺して泣き出す。 死んだ雪那さんを憎んじゃいけない事は解ってる。でも、どうして貴方は今も生きている緋月君を苦しめるの? どうして緋月君は貴方から離れる事が出来ないの? 私は緋月君を誰よりも愛している自信があるわ。だから雪那さん、もう邪魔しないで。 恥もプライドも私は捨てられる。緋月君の為なら。 | |
目次 | 第二章-8 |