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 緋月は、舞苺がシャワーを浴びている間に、彼女が持って来たタルトを箱から出して二人分を切り出した。タルトは円形で片手を広げたぐらいの大きさがあるので、四分の一を一人分にして、余った半分は冷蔵庫にしまった。

 薄くスライスして並べられた林檎から、甘酸っぱい匂いが部屋に広がる。

 随分と手間が掛かってるな。俺には到底作れそうに無い。さて、舞苺ちゃんが出て来る前に紅茶でも淹れるか。

 緋月はガスコンロに薬缶(やかん)を置き、火を点けた。蒼い炎が薬缶の底を包む。

 それにしても、予想以上に早く来たな。しかも特に迷っている様子も無かった。何の為に早く来たのか? 俺が迎えに行くのを止めさせる為だろう。止めさせる理由は、俺に歩かせるのを悪いと思ったからじゃ無い。確実に俺の部屋に来る為だ。

 

 そろそろ、彼女には解って貰わなければ。俺は誰も愛せない事を……

 俺と一緒に居たって、君は幸せになれないんだ。

 

 湯が沸騰し、コンロの火を止めるとユニットバスの扉が開く音が聞こえた。後はティーカップに湯を注ぐだけなので、タイミングが良いと思い緋月が振り向く。すると、其処には予想も出来ない光景があった。

「舞苺……ちゃん?」

 バスタオルのみを体に巻き、さっき着ていたワンピースを着ていない。何故だ?

「あっ、服が濡れてるから着れないんだな。俺の服で良ければ用意するから、待って」

 緋月が其処まで言った時には、舞苺は緋月の直ぐ傍まで来ていた。硬直する緋月を他所に、彼女は部屋の電気を消し、カーテンを閉める。部屋を照らすのは、向日葵が置かれた小窓から射す光だけになった。

「緋月君、話があるの。座ってゆっくり話がしたい」

 舞苺はそう言って、緋月のベッドに座った。緋月は、暗闇に浮かぶ舞苺の白い肌を直視出来ずにいたが、自分からも話があるので舞苺の横に座る。

 その直後、舞苺は両手を広げて緋月の首に思いっ切り抱き付いた。緋月は突然の抱擁に為す術も無く、ベッドに倒れる。そして……

 

 舞苺は体からバスタオルが離れるのにも構わず、緋月に口付けをした。

 

 熱い……、君の身体も唇も。俺が溶けて無くなりそうだ。こんなに強い力で俺を抱き締め、強引に唇を奪ったのに、君は目をキュッと瞑って震えている。本当は怖いんだな……

 緋月は、そっと舞苺の滑らかな背中を抱き締めた。すると舞苺は、キスをしたまま潤んだ瞳で緋月を見詰め、舌を口内に挿し入れて彼の舌に絡ませる。

 ああ、そうだ。これがキスだ。蕩けるような感覚が全身を麻痺させる。体中を熱が駆け巡り、思索を巡らせるのが億劫(おっくう)になる。

 

「緋月君、愛してる。誰よりも、何よりも」

 

 ようやく唇を離した舞苺が、緋月の耳元でそう囁いた。

 俺は誰も愛せない。愛しちゃいけない……。なのに、君はこんな俺を愛してくれる。俺は、誰かを愛するのならば雪那を忘れなくてはならないだろう。

 舞苺ちゃん……、否、舞苺の気持ちを受け入れれば、俺はもう苦しまなくて済むのだろうか? 雪那の事を思い出して泣かなくても良くなるのか? 携帯に今も残っている、雪那の最後の声を消す事が出来るのか?

 舞苺は苦悩に満ちた緋月の表情に気付き、自分の胸に彼を抱き寄せた。彼女は一糸纏わぬ姿だったが、恥ずかしさなどは感じず、緋月の傷を癒したい一心だった。

 柔らかい……。こんなに、柔らかいんだな。何もかも包み込んでくれそうな柔らかさだ。舞苺は、俺を闇から連れ出そうとしてくれている。

 

 後は俺が、一歩踏み出す勇気を持つだけなんだ。

 

 緋月は目を見開き、舞苺の髪を撫でながら自分の胸に抱き締め返した。その時だった。目に「光」が飛び込んで来たのは。

 小窓から射し込む光では無い。その光を受けて、太陽のように見える向日葵の光だ。花屋で見付けて、何気無く買った一輪の向日葵。それを直視した瞬間、緋月の中で雪那と過ごした夜が生々しく蘇る。

 目の前に居る舞苺と同じように、白い肌を曝け出した雪那。互いの肌の温もりを感じて幸せだった夜。そうだ、あの晩雪那は月を見て泣いていた。私達は何も変わらないと言って。俺は、雪那が一線を越えるのが急に怖くなって泣いたのだと思っていた。それまで変わらずに過ごして来た俺達が、その夜を境に変わってしまうかも知れないからだ。だが、今考えるとそれはおかしい。

 雪那は変化に対して恐怖など抱いていた事は無かった。俺が告白して付き合う事になった時も、指輪を渡した時も心から喜んでくれていた。雪那が一番怖がっていた事は、俺と離れてしまう事。あの晩の雪那の怖がりようは尋常じゃ無かった。あの、恐怖と悲しみが入り混じったような顔が脳裏に浮かぶ。まさか、俺と離れるのが怖くて、しかもそれが避けられないから悲しんだのか。

 

 もし、あの時に雪那は自分の死を予期していたのだとしたら――

 

 一度はその事を考えて否定した。だが、やはりそうだったのだ。その後の雪那の行動と言動が全てそれで説明出来る。

 雪那はあの晩、俺と結ばれたかったのに、早く自分を忘れて貰う為に諦めた。最後に会った夜も、本当は俺の家に来たかったのだ!

 医師には、雪那は即死だっただろうと診断された。なのに、雪那は最後に俺に電話をした。悲しまないで、俺は俺の人生を生きろと言ってくれた!

 あの電車で自分が死ぬ事が解っていたから、死ぬ間際に俺に電話が出来たのだ。

 

 俺は馬鹿だ。雪那の苦しみを何も解ってやれなかった!

 

 いつの間にか、緋月は声を上げて泣いていた。舞苺も、大好きな緋月の胸の中に居るのに涙が止まらない。二人は届かない想いを共有し、抱き合いながら泣いた。これが、一緒に居られる最後になる事も解っていた。

 

 日が傾き始めるまで、緋月と舞苺は離れなかった。

 小窓から夕陽が射すと、舞苺は無言でベッドから出て濡れたワンピースを着る。緋月は再び薬缶を火に掛けた。

 二人は寄り添って、アップルタルトを食べるが、甘さを殆ど感じなかった。

 タルトを食べ終え、舞苺は鞄から赤い包装紙に包まれた時計を出す。

「緋月君、受け取って」

 目を腫らした舞苺が、両手で緋月に時計を渡す。

「ありがとう……。舞苺」

 緋月は包み紙を丁寧に取り去り、箱の中から学生には高価なアナログの腕時計を取り出した。早速彼はそれを左腕に巻く。その時計で舞苺が伝えたい事を、緋月はちゃんと理解した。

「喜んで貰えて良かった。でも、私は貴方の事を『緋月』とは呼ばないわ。私、名前を呼び捨てにする人は彼氏だけって決めてるから」

 舞苺が勝気な笑みを見せる。強がりだと気付いても、緋月は決して指摘したりしない。そして彼氏になると言える筈も無い。

 

「緋月君、ありがとう。貴方の優しさに触れられて、私は幸せだった。本気で人を好きになる喜びも貴方に教えて貰った」

 

 緋月は目に雫を浮かべて頷く。言葉を掛ける事が出来ない。

 

「緋月君の苦しみは、緋月君自身が乗り越えなくちゃいけないわ。辛いと思う。でもね、私も辛いんだから、頑張ってね」

「……ああ」

「緋月君が、元気になれるように祈ってる。貴方がもし、雪那さんの事を受け止めて、新しく一歩踏み出せるようになったら、私は直ぐ駆け付けるわ。だからそれまで……」

 

「さよなら」

 

 舞苺が去っていく。追って抱き締めたい衝動に駆られる。だが、俺にそんな資格は無い。(いたずら)に傷付けるだけだ。

 緋月は、舞苺が扉を開けて出て行くのを黙って見ている事しか出来なかった。扉が閉まった後、緋月はその場に泣き崩れる。舞苺も扉の向こうでは緋月と同じだった。

目次 第二章-9