6五月四日、ゴールデンウィークの二日目。この日は朝から零雨が降っていた。しとしとと振る小雨だ。緋月と舞苺は、学校の最寄り駅で午後一時に待ち合わせをして、美術館に向かう。 舞苺は、眩い程真っ白なワンピースを着て来た。緋月は一瞬、清楚で美しい舞苺に目を奪われる。だが、直ぐに目を逸らして券売機に向かった。 何を見とれてるんだ。俺は、雪那以外の女に興味を持っちゃいけないんだ。今日は、俺と似た感性を持つ人と絵を見に行くだけで他意は無い。 舞苺は、緋月の視線を感じて満足そうだ。彼女は一瞬で、緋月は白が好きだと理解した。 電車に揺られて三十分。二人は美術館の最寄駅に着いた。此処からは十分程歩かねばならない。緋月は、紺色のジャンプ傘を開いた。舞苺は微笑みながら、じっとそれを見ている。緋月は、それに気付かない振りをして黙って一人で歩き出した。すると、舞苺は仕方無く鞄から折り畳み傘を取り出して緋月の後を追う。 やっぱり持っていたか。朝から降っているのに、持っていない筈が無いよな。きっと俺が彼女に視線を合わせていたら、傘を忘れたとか言い出しただろう。彼女は何故だか知らないが、俺に好意を寄せている。 「迎居君、歩くの早いわ」 「あ、ごめん」 特に緋月が早く歩いていた訳では無い。舞苺が、ゆっくり並んで歩きたいのだ。緋月が歩速を落とすと、舞苺は少し俯きながら頬をほんのり赤く染めて、互いの傘が当たらない距離まで緋月に近付く。 初めて会った時から思ってたけど、積極的な子だな。そして頭の回転が速い。恐らく、俺がペアリングを二つ付けている事にも気付いているだろう。彼女が指輪について何も聞いて来ないのがその証拠だ。一つだけなら、それとなく俺に彼女が居るのかを尋ねている筈だ。 俺は今でも雪那を愛している。雪那の、俺に対する想いも最後まで変わらなかった。俺は雪那以外、誰も愛さないし、愛したくない。でも雪那は、俺に自分の人生を生きろと言った。俺の人生、雪那の居ない人生…… 言葉数の少ない緋月とは対照的に、舞苺はよく喋った。学校の事、絵の事、幼少時代の楽しかった思い出などを。そのまま十五分程歩き、二人は美術館に到着した。美術館には、昨日から二人の好きな画家の絵が展示されている。 入館料を支払い、二人は美術館に入った。特別展の掲示を先に見付けたのは舞苺だった。 「迎居君、見付けたわ!」 彼女は嬉しさの余り、声を上げ掲示ポスターに向かって走り出そうとする。その声の大きさと、突然動いた舞苺に驚き、緋月は咄嗟に右手で彼女の左手を捕まえた。 「あっ」 二人共目を丸くして、思わず声を漏らした。我に返った緋月が手を離そうとするが、舞苺は離さない。緋月が恐る恐る舞苺の顔を見上げると、混じり気の無い純粋な幸せに満ちた笑顔があった。 胸が高鳴る。彼女の手は雪那と同じで冷たい。指の細さまで同じだ。狂おしいまでの懐かしさが俺を埋め尽くす。彼女は雪那じゃ無い。なのに、雪那と手を繋いでいる感覚が蘇る。そうだ、俺の記憶から雪那が消えないように、体も雪那を覚えているんだ。 「迎居君、手を繋いだんだから、今日からは『緋月君』って呼ばせて貰うわね」 無意識だったとは言え、彼女の手を取ったのは俺だ。名前ぐらいは構わないか…… 「ああ」 「私の事も、『舞苺』って呼んで欲しい」 「ああ」 「嬉しいっ!」 舞苺が緋月の手をギュッと握る。緋月は混乱していた。夥しい程の雪那との記憶と、湧き上がって来る、理性では制御出来ない感情の奔流によって。 舞苺の手に雪那を感じてしまってからは、緋月は彼女の手を離せなかった。勿論、舞苺から手を離す事は無い。 人間は大概の環境には慣れる。その環境が苦痛を伴わないものなら尚更である。数時間に及ぶ絵の鑑賞と論議をし終える頃には、二人共手を繋いでいるのが当たり前のような感覚に陥っていた。 美術館を出ると、世界は夜に近付こうとしていた。雨は止んでいない。 緋月が傘を広げると、舞苺が当たり前のように傘に入って来て肩を寄せる。昼間に比べ、随分と気温が下がっていた。髪が靡く程の風も吹いているから尚更である。その冷たい風は、緋月を少し冷静にさせた。 俺は何をやってるんだろう? これじゃあ恋人じゃ無いか。ずっと手を繋ぎ、今もこうして一つの傘の下に居る。その状況を俺は拒絶もせず、寧ろ受け入れている。 はっきり伝えなければならない。俺には雪那が居る事を。 外に出てから無言だった緋月が口を開きかけたその時、舞苺が緋月の正面に立ち、傘を持っている彼の右手を両手で握った。 「私は緋月君が好き。今まで、自分から誰かを好きになった事が無かったけど、緋月君が好きで堪らない」 彼女の顔は、暗い中でもはっきり解るぐらい朱に染まっている。その目は潤んでおり、今にも涙が零れそうだ。俺が何か辛い事を言おうとしているのを察知したんだな…… 真摯な想いには、俺も真摯に応えなければ。 「ありがとう、舞苺……ちゃん。俺の話は長くなるけど聞いてくれるか?」 「うん」 緋月は舞苺に隣を歩くよう促し、二人は美術館から近くの公園へ向けて歩き出す。 公園の中にある池に、街灯の明かりが映っている。映った光は雨粒によって揺らめき、常に姿を変えている。緋月は、無意識に揺らめきを目の端で捉え、口を開いた。 「俺には、大切な人が居たんだ。今思えば恋人とか、友達とか、そんな簡単な言葉では言い表せない、この世界にたった一人の大切な人だった。物心が付いた頃からずっと一緒で、楽しい事は勿論、悲しい事も共有してきた。人間は、生きてる限り『自分』を切り離す事は出来ないだろ? 俺にとっては、『雪那』も切り離す事の出来ない存在だった」 いつもお喋りな舞苺が口を挟まない。それどころか、俯いて緋月の隣をゆっくり歩くのがやっとだ。彼女にとって予想出来た話とは言え、緋月本人の口から語られると衝撃は大きい。緋月はその様子に気付いているが、口を閉ざそうとはしない。中途半端な優しさで苦しめるよりは、はっきりと自分の想いを口にするのが本当の優しさだからだ。 「俺が美大に入れたのも、今の自分が居るのも雪那のお陰だ。なのに雪那は……、死んだ。二月に起きた列車事故で」 自然と涙が溢れた。雪那の死は、もう自分の中で納得した筈なのに。それを口にするのは、これ程辛い事なんだな…… いつの間にか緋月は歩くのを止め、傘を地面に落としていた。すすり泣くような雨が、緋月と舞苺を濡らす。舞苺が静かに緋月を抱き締めると、緋月は嗚咽を漏らした。 「俺は今も雪那を想ってる。忘れられる筈が無いんだ! 雪那を忘れた俺なんて、俺じゃ無い。でも、もう雪那は何処にも居ない。俺がどれだけ叫んでも、声は届かない!」 緋月の悲痛な叫びを聞き、舞苺も涙を流す。だが、彼女は何かを決意した目で緋月を見上げ、迷いの無い声で緋月に宣言する。 「貴方の声は私が聞くわ。雪那さんの代わりにはなれないけど、私はずっと傍に居る」 | |
目次 | 第二章-7 |