第三十節 華兄

 

 黄昏の海が眩い、時刻は午後六時。リウォルを出航してから二日後の夕方、予定通りルナ達はフィグリルに着いた。フィグリルの建造物は、全て白亜で出来ている。建造物だけでは無い、道も、港の岸壁も。フィグリルは、アトン地区に於いてリウォルに並ぶ都会で、交易、芸術、医療が発展している。特に芸術は、アトン地区だけでは無く世界中で評価を受けている程だ。

「真っ白で綺麗な街ですね……」

 フィーネは、感嘆の溜息を漏らしながら、街の中心部に向かって先頭を歩く。

「そうだな、夕紅を受けても白く眩しい」

 そう言って私は足を止めた。そして、街全体を見渡す。これは……

「どうかしたんですか?」

 フィーネが首を傾げて私の顔を覗き込む。目の前にあるものは見間違いでは無さそうだ。

「(ルナー、これは巨大な結界よね)」

 そう、神術による結界だ。人間には認識出来ない「薄い結界」が、街全体に張り巡らされている。この結界は魔の侵入を防ぐものでは無く、進入を「検知」する為のものだろう。街は少なく見積もって、二百平方kmはある。これ程までに桁外れの神術を使える者が、この街に居るのだ。恐らくは噂の「神官」。まさか神官は天使なのか? 否、並の天使ではこんな芸当は不可能だ。私でも無理だろう。

「フィーネ、この街には強大な力を持つ者が居る。神官がそうかも知れない」

「それなら、早く会いに行きましょう! きっと私達の力になってくれます」

 フィーネは結界を越えて走って行く。相変わらずだな……。私は溜息を吐いてフィーネを追い掛ける。

 

 家々の外壁に設置された街灯に、人間が火を灯していく。すっかり夜だ。神官の居る神殿までは、港から一時間程歩かねばならない。私達は白亜の表通りを通っていたが、通りに面した家から、夕食の良い香りが漂って来る。視界を(かす)める一家団欒(だんらん)の風景。フィーネと作る温かな家庭を思い浮かべた。

 神殿も純白だった。しかし、何故かこの神殿は何処かで見た事があるような気がした。数秒考えて答が出る。天界の建築様式に似ているのだ。屋根や柱、階段が。

 神殿の前に佇む私達の元に、一人の衛兵が近寄って来る。

「失礼ですが、貴方はもしや、ルナリート様ですか?」

 何故私の名を知っている? 既に、私の名は人間界に広まっているのか。

「そうだが……」

「ルナリート様、神官がお待ちです!」

 衛兵が、ピシッと背筋を正し私に敬礼をした。どうやら歓迎されているらしい。

 私達は衛兵の後を歩き、神殿の奥へと進む。壁には神術で灯された燭台。足元には赤い絨毯(じゅうたん)。そして、脇には大理石の彫像。まるで天界に居るようだ。

「こちらです、どうぞお入り下さい」

 衛兵に促され、私はドアに手を掛ける。「ギィィ」という音を立てて、ドアが開いた。

 

 部屋で私を待っていた人物を見た瞬間、私は言葉を失った。足元が揺れ、やがて全身が震える。そして震えは、涙に変わった。

「……ハルメス兄さん!」

「待っていたぞ、ルナ! 大きくなったな」

 何という僥倖(ぎょうこう)……! 兄さんは、千百年前に神官によって葬られたとばかり思っていたのに。少し年を取っているが、紛れも無くハルメス兄さんだ。短く切られ、逆立った銀色の髪。そして、強さと優しさ、鋭さが共存する蒼い瞳。

「よくぞご無事で!」

「おいおい、泣くなよ。折角の、千百年振りの再会だぜ」

「はい……。貴方の事を忘れた事は、片時もありません!」

 私は涙をハンカチで拭い、兄さんに貰った本と懐中時計を見せた。

「ちゃんと持って居てくれたんだな、ありがとう。言って無かったが、その時計は俺の神術で動かしている。俺が死ねば、止まるようになっていたんだ」

 そう言う事は最初に言って欲しい。ハルメスさんは秘密裏に裁かれ、誰も裁判を傍聴出来なかったのだから。死んだと思うのが自然だ。

「この時計にそんな仕掛けが……。それより、どうして此処に?」

 私がそう言うと、兄さんは不敵な笑みを浮かべた。

「五百年の堕天の刑を受けたからだ。ハーツは俺を殺さなかった。五百年間の苦渋を俺に味わわせた後に、自分の側近にしようと目論んでいたのだろう。だがそれは、奴の完全な誤算だった。俺は人間界に住み着き、未だに帰っていないからな。お前も、堕天か?」

 そうか、ハーツは兄さんまで自分の物にしようとしていたのか。卑劣な奴だ。だが、束縛された時代は終わったのだ。

「はい、私も二百年間の堕天です。しかし遂にハーツは失脚し、天界には『自由』が訪れたんです!」

 この喜びは、この人に一番伝えたかった。それが叶って胸が一杯になる。

「そうか、やったな! ……まぁ、積もる話は後でゆっくりするとしよう」

「その前に、一つだけ聞かせて下さい。何故天界に帰って来ず、この世界に居るのか」

「……恐らく、お前と同じ理由だ」

 兄さんは、私の横で怪訝(けげん)な顔をしているフィーネに視線を送った。成る程。しかも、兄さんは「天使の指輪」を付けていない。完全に天使である事を放棄している。彼も私と同じように人間を愛し、魔と戦ったのだろう。だが此処に、その愛する人間は居ない。それなのに、兄さんは人間の為に生きている。

「一つ違います。私は、二百年が経てば天界に帰るでしょう。貴方のように、たった一人で戦い続ける事は出来ません……」

「構わないさ。二百年、お前が居てくれるだけで大助かりだ。それはそうと、隣の女性と指輪になっている天翼獣を紹介してくれないか」

 指輪のリバレスがビクッと動き、彼女は元の姿に戻った。私が二人を紹介した後に、二人が自己紹介を始める。

「フィーネです。ミルドの村から来ました。宜しくお願いします……」

 彼女にしては珍しく、随分ギクシャクした挨拶だった。

「リ……、リバレスです。あなたの事は、ルナから伺っています。初めまして」

「はっはっは、俺はハルメス。宜しくな。ルナ、良い仲間を持ったな!」

 兄さんが、私の背中を平手で叩く。私は笑みを浮かべて頷いた。

 四人で暫く話をした後、私とフィーネ、リバレスは二階の豪華な客室に案内された。夕食会の準備が終わるまで(くつろ)ぐよう言われたからだ。兄さんは会の指揮を行なうらしい。

 

 夕食会までの間、私はフィーネに兄さんとの事を話す事にした。私の生い立ち、クロムさんに育てられ、同じ孤児同士の兄さんと暮らした事。ハーツとの確執など……

 話が終わるまで、フィーネは一言も喋らず黙って聞いていた。話し終えた後、彼女は浮かない表情でポツリと呟く。

「ルナさん……」

「どうしたんだ? フィーネ」

 彼女の表情の理由が解らない。塞ぎ込み、諦観(ていかん)しているかのような表情。それを見詰めていると、彼女は窓際へと歩いて行った。表情は見えないが、背中が僅かに震えている。

「今の話を聞いて、何だかルナさんがとても、とても遠い存在に思えました。私はたった十七年しか生きていなくて、あなたのように厚みのある人生は送っていない。あなたは凄い力を持ち、素晴らしい仲間が居る。……私は、本当にあなたに相応(ふさわ)しいんでしょうか?」

 遠い存在……、か。だが、フィーネは決して薄っぺらな人生を送ってきた訳じゃない。その心が(つちか)われるまでに、どれ程の愛、喜び、悲しみを受けてきたか、想像もつかない。

「私は……、フィーネと一緒に生きられる事を誇りに思っている。君の心は、私なんかよりもずっと素晴らしい」

 彼女の手を握る。私よりも少し冷たい手。何の心配もしないで欲しい。

「あなたの方がずっと……。私は……」

 フィーネの目から涙が零れた。まだ、何か言いたい事があるようだ。彼女が更に何か言おうとしたその時、ノックの音が聞こえた。

「宴会の準備が整いましたので、どうぞお越し下さい」

 フィーネが頷く。話は後だ。

 

 神殿一階の大広間に案内され、私達は円卓に座った。豪勢な料理、見た事も無い酒が並び、人間の奏者によるピアノの演奏が雰囲気を盛り上げている。

「さぁ、今日は千百年振りの再会を祝って、乾杯だ!」

 ハルメスさんの声と共に、夕食会が始まった。

「こんな日が来るとは思っていませんでした。今日は最高の日です!」

 私は喜びの余り、感情を抑え切れない。兄さんと話がしたい、千百年の出来事を聞いて欲しい。それだけが私の望みだった。熱中する余り、周りの声も聞こえず、他のものは見えなかった。

 天界に自由が訪れた事を、兄さんは何より喜んだ。そして私とフィーネの事を話すと、兄さんは自分の事を教えてくれた。深くは教えてくれなかったが、堕天した年に「ティファニィ」という人間の女性に出会い、恋に落ちたらしい。

「お前も立派な大人だな。フィーネさんを大切にするんだぞ! 絶対に失わないように」

 兄さんは目を細めて、私の肩を叩く。私はしっかりと頷いた。

「はい! 私は、フィーネを守り通します」

「よし。それでこそ、俺が見込んだ男だ! その誓いを忘れるなよ」

 私達は、「パーンッ」とハイタッチを交わした。そして、二人で笑う。

「はいっ! また今度、ティファニィさんとの話を詳しく聞かせて下さいね」

「ああ、この戦いが終われば話す。……必ずな」

 一瞬、兄さんは視線を下に落とした。何かを躊躇っているかのように。だが、今聞いても答えてはくれないだろう。ならば、フィーネの為にも魔との戦いを終わらせるしか無い。

 二百年ハルメスさんと手を組めば、人間界の魔を全て撃退するのも不可能じゃないだろう。外の結界を見る限り、兄さんの力は半端じゃない。

 私達は再びハイタッチをして、暫く話し込む。話す事が多過ぎて、収集がつかない。

 

「ルナ、そろそろフィーネさんの所に行った方がいいんじゃないか?」

 ハッとした。見回してみると、この広間にはもう誰も居ない。食器も片付けられている。

「今、何時ですか?」

「夜中の三時だ。早く戻るんだ」

 私は頷き、一礼した後部屋へ駆け戻った。静かにドアを開け、部屋を見回す。リバレスは眠っている。フィーネは……、居ない! 思わず声を上げそうになったが、私のベッドの上に一枚の紙を見付けたので、声を押し殺した。急いで書かれている文字を読む。スラスラと流れるような、綺麗な文字。

「愛するルナさんへ

屋上で待っています。凍えない内に会いに来て下さいね。

フィーネ・ディアリーハート」

 私は紙を懐に入れ、屋上を目指して駆け出した。




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