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 二日後の夜、少し残業をして仕事を終えた風音はこの日も神社へと向かった。降り頻る雨が空を仰ぐ全てのものに跳ね返る。風音の差す傘、池の水面、本殿の屋根、そして足元の砂利。それらと雨の衝突が絶え間なく続き、連続した音を発生させる。砂利を踏む足音と、稀に木々から大粒の雫が池に落ちる音が雨音の協奏にアクセントを付けるが、それらは場の調和を乱してはいない。

 しかし風音が四十六度目の参拝を始めようとした時、調和を著しく乱す携帯電話の電子音が風音の鞄から鳴り響いた。その着信音は仕事用では無く、プライベート用携帯のもので最近は殆ど掛かってくる事が無かった。風音は紙縒りを一時的に鞄のポケットにしまい、恐る恐る携帯を取り出した。

「非通知?」

 誰だろう、私の個人携帯に電話してくる人は少ない。女友達は急用以外はメールが殆どだし。しかも非通知で掛けて来るなんて。呼び出し時間が長いから悪戯の可能性は低いけど、まさか――

 彼女はある考えに至り、思い切って受話ボタンを押してから受話口に耳を押し当て相手の声に耳を澄ませた。雨音に混じり微かに男の声が聞こえる。

「……もしもし」

 ノイズの酷いくぐもった声、だがその声を聴いて風音は携帯とは反対の手に持った傘を落とした。直ぐに無数の雨粒が彼女の髪や服に染み込んでいくが、彼女はそれを気にも留めず唯声を聴いていた。否、彼女にはそうする事しか出来なかったのだ。受話口から幾度か繰り返される呼び掛けの声に反応しなければと思い至ったのは数秒後の事だった。

 

「紡樹! 紡樹なのね?」

「ああ、心配掛けて……、ごめん」

 

 紡樹! ああ、本当に紡樹なんだ! やっぱり生きていてくれた。夢のような状態で砂漠で会った紡樹とは違う。今の紡樹は明確な意志を持って私に電話を掛けてくれているのだ。出国前のような突き放したような話し方じゃ無く、以前の紡樹のようにいたわりに満ちている。何か喋らないと! 話したい事が一杯あるのに、なかなか言葉が――

「風音、元気にしてるか?」

「え、うん! 紡樹の方こそ大丈夫なの?」

 風音は何とかそう返答し紡樹の言葉を待つ。彼女の顔は冷たい雨に濡れ、頬を幾筋もの水が流れる。そして水は温かな涙と混じりあい、漣の立つ湖のような水溜りへと落ちた。

「ああ、もう大丈夫だ。風音……、本当にありがとう」

 ありがとうって言葉は、私が貴方に何度言っても足りない。なのに!

「私の方こそありがとう。私の方が紡樹に感謝する事が一杯なのよ。だから、改まらないでいつも通りで居て」

「分かった。でも俺は風音のお陰で今もこうして元気で居られる。その事だけはどうしても伝えたかったんだ」

 私も貴方のお陰で長年私を蝕んで来た闇が消え去ったわ。それがどれ程待ち焦がれていた事で、どれほど凄い事か分かる?

「うん……。ところで、こっちにはいつ帰って来るの?」

 その言葉を聞いてから紡樹は暫く無言を保った。その空白には躊躇が含まれているようで、風音は彼との再会が直ぐには訪れないであろう事を悟る。

「ビザが切れる三月末頃までは、こっちにいようと思う。今俺は自分の体験を基に新しい小説を書いていて、それを帰国するまでに完成させたいんだ。……ごめん」

 風音は紡樹の言葉を聞きながら自分の体の冷たさに気付き、傘を拾い上げた。二度身震いをしてから深い溜息を吐き、彼女は言葉を発する。

「うん……、分かった。でも連絡ぐらいは取れるよね?」

「勿論。こっちの滞在先と連絡先も教えるから、何も心配しないでくれ。今、メモを取れるか?」

「ううん、今は無理よ。ねぇ紡樹、家に帰ってからゆっくり話をしたいから一時間半後にもう一度電話をくれない?」

 紡樹が無事だったからって、お百度参りを中断する訳にはいかない。寧ろ今日こそ私は感謝の祈りを捧げなければならないのだ。

「ああ、分かった。気を付けて帰るんだぞ」

「うん、また後でね!」

「了解。そうそう、もし俺からの封筒が届いていたら未開封で置いておいて欲しい。明日届く筈だけど手違いで早めに届いているかも知れない。それはもう風音に渡す必要が無いから、俺が帰国したら返して欲しいんだ」

 封筒? 恐らく紡樹が出国前に私に出したもの。暗闇に呑まれかかっている状態で私に出したものだから、紡樹の言う通り絶対に見ないでおこう。

「うん、約束する」

 紡樹はその返答に満足したのか、再度連絡する旨を告げて電話を切った。風音は鼻歌を口ずさみながら百度参りを続行し一時間程掛けて、残りの五十四回を終えた。

 そして彼女はマンションに帰り、郵便受けを確認した。其処には行き着けの衣料品店などからの葉書が複数、地域情報の冊子が一冊、そして何の飾り気も無い封筒が一通届いていた。「紡樹の心配は無駄では無かった」と思い、何気無く封筒の裏の差出人の欄を見ると、其処には紡樹の名では無く、遠い記憶に刻まれた「決して忘れる事など出来ない名称」が記載されていた。

 

 そこに印字された差出人は、幼少時に風音が暮らした児童養護施設の名だった。

目次 第四章-3