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 風音は自室に戻ると荷物を置き、タオルで濡れた髪とコートを拭いた。本当はシャワーを浴びたかったがもう直ぐ紡樹から電話が掛かってくるので我慢し、動き易く温かな部屋着に着替える。そして封筒の差出人をもう一度確認したが、やはり其処にはかつて自分が居た施設の名前があり、宛先は自分になっていた。

 これまでに施設から自分宛に郵便物が送られて来た事は無く、施設側も自分が一人暮らしをしているこの住所は知らない筈なので風音は首を傾げる。可能性として考えられるのは、施設が両親に連絡を取り両親が自分の住所を教えたぐらいだがその理由が分からない。だからこそ風音は特に深く考える事も無く封筒を開いた。

 封筒の中には便箋が一枚と、白い和紙で作られた封筒が一つ入っていた。風音はまず白い封筒を手に取って眺める。封筒には封がされておらず、切手も貼られていない。宛名は自分になっているが住所が書かれていない事から施設はこの白い封筒を自分に届けたかったのだと理解する。案の定白い封筒の裏には聞いた事の無い女性の住所と名前が毛筆で書かれてあった。彼女は一旦施設からの封筒と白い封筒をテーブルに置き、ボールペンの丁寧な字で書かれた横書きの便箋に目を通し始める。

 時候の挨拶をさっと読み、その後に施設の近況について書かれていたのでじっくりと目を通す。この手紙を書いたのは当時の施設長の息子で、風音とは面識が無い。だが文章から彼女の事を父親から聞いてよく知っている事が窺えた。当時の孤独感と懐かしさを覚えながら、主文へと視線を移動させる。すると、ある一文で彼女の動きが止まった。視線、呼吸、体の微動など彼女の外面的な動きが停止する。手紙にはこう書かれている。

 

「同封の封筒は、貴女を施設に置き去りにした女性から預かったものです」

 

 徐々に風音の瞳が大きく見開かれる。彼女は余りの衝撃に、一瞬その文の意味を理解出来なかった。意味を理解してからは、体と心に同時に強い電撃が走ったようになり彼女は痛みに似た感覚を覚えた。

 

 ――私を置き去りにした女性?

 どういう事なの。二人共とっくに死んでいると思っていたのに。今まで何の連絡も寄越さず、私を見捨てて何処かで厚かましく生き続けて、挙句の果てに今更連絡? 何を考えているの! 私の人生を最初から狂わせて、ようやく紡樹のお陰で真っ直ぐ歩んでいけそうなのに、どうして邪魔をするの?

 

 風音は怒りに任せて机に置いた白い封筒を破り捨てようとしたが、感情や理性では割り切れない強い衝動とも言えるような何かがその怒りを抑え、彼女の手の震えを止めた。彼女は努力して心を無にし、白い封筒に入っていた五枚の便箋を取り出した。

 風音は椅子に座り、毛筆で一文字一文字心を込めて書かれたであろう、縦書きの手紙を読み始める。朗読するようにゆっくりと。

 

「拝啓

 大寒の候 あなた様におかれましては、益々ご清祥との事と拝聴致しております。

 この度筆を取らせて頂きましたのは私の身勝手であり、あなた様には多大なる苦痛を負わせてしまうと知っての上でございます。ですが、今此処であなた様にこの手紙を出さなければ真実をお伝えできる者はいなくなりますので、あなた様の心中を考えて全身が打ち震えながらも筆を取らせて頂いた所存にございます。

 これ以降はあなた様にとって、ご不快になられる事柄が記されております。お読みになりたくなければ、どうぞこの手紙は破り捨てて下さって結構です。ですが、私にはもう時間が残されておりません。時間を掛けて罪を償う事が出来ない事をどうかご察し頂ければ幸いでございます。

 

 この手紙が罪滅ぼしにもならず、寧ろ罪を深めると知っての上で申し上げます。

 

 私はあなた様を産み、養護施設の前に置き去りにした者です。私は母親としての責務を放棄致しました。今更何を言い訳しようとそれが事実です。ですが私が死ぬ前に、あなた様に一つだけお伝えしたかったのです。

 あなた様を施設に置き去りにしたのは、私達夫婦にとってあなた様が邪魔になったからでも不要になったからでもありません。あなた様を守りたかったからなのです。

 当時私達は多額の借金を背負っておりました。夫は人が良く、返済の見込みの無い複数の友人の借金保証人になって、その弁済でギリギリの生活にも関わらず、私が背負っていた借金まで引き受けてくれました。夫婦で身を削るように働いている中、あなた様は生まれました。私達は貧しくも幸せでしたが、やがて夫が無理な労働で体を壊しました。借金は膨らむ一方で、自己破産も出来なかった私達は決意したのです。

 

 それは、あなた様を施設に預け、私達は心中する事でした。

 

 あなた様を施設に置き去りにした後、私達は心中を図り、夫は亡くなりました。ですが私は死を免れ今も辛うじて生きております。

 

 あなた様は、「風音」と名付けられたそうですね。あなた様は紛れも無く風音様であり、私達が付けた名前になど何の意味もありません。これからも、風音様として健やかに生きていってくれる事を、私達は祈っております。

 私は夏を迎える前には、誰に看取られる事も無く夫の元に召されるでしょう。この手紙は、入院している病院にて書かせて頂きました。

 

 此処までお読み頂いた、あなた様の寛大なお心に深く感謝致します。

 末筆ながら、あなた様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

敬具」

 

 風音は何の感情も浮かべずに、最後まで読み切った。彼女の顔は精緻な彫刻のように微動だにせず冷ややかだった。だが便箋を折り畳もうとして、最後の便箋の裏に書かれた文字を見て彼女は青褪めて立ち上がった。便箋の裏の文字は、それまでの文字のように整ってはおらず走り書きだったが、その分この手紙の中で最も切実で感情が籠もっている。それ以外の言葉は全て飾りに思える程の強さ。

 それはたった一片の言葉だった。

 

「会いたい」

目次 第四章-4