12

 

 月光と星明りのみが果ての見えない漆黒の砂漠を照らし、動くものは風に巻き上げられた砂しか見えない。何処を見渡しても地平線と星が鏤められた暗幕の境界が水平なので、砂漠以外には何も存在しないかのようだが、一箇所だけほころびのように星が不自然に切り取られていた。

 風音はその闇に吸い寄せられるように向かっていく。正確に言えば、風音の意識のみがこの漆黒の中心に存在し、何かに導かれるように歩いている。彼女が歩いても砂の上には足跡すら残らず、物音一つしない。無限大とも思えるような広大で無人の大地で、誰も彼女を見咎めるものは居ないが、もし誰かがこの場に居たとしても彼女の存在には気付かないだろう。だが彼女はこの世界が現実であり、想像も出来ない程遠い場所である事が分かっていた。

 彼女は自分が何故歩いているのかも分からないまま、世界のほころびへと近付く。やがてそのほころびの正体が小高い岩山であると分かった時、その麓に小さな光が見えた。その輝きは風音が近付く毎に強さを増していく。彼女は直感的に、その光の源が何かを理解する。

 ラピス・ラズリ。

 その言葉が浮かんだ直後、風音は全てを悟り光の元へと駆け出した。息も切れず、地面を蹴っている感覚も無いが彼女は全速力で走る。数分、あるいは数秒だったのかも知れないが、彼女は走りながらこれまでの人生の中で最も長くもどかしい時間を感じていた。そして風音はようやく光の元へと辿り着く。

 

 紡樹!

 

 聳え立つ砂岩の麓には大きな水溜りがあり、それを囲む紅砂の上で光を放つラピス・ラズリの傍らに紡樹は倒れていた。彼は瞳を閉じ掛けているが、必死で何かを探すかのように手を伸ばして、何度も腕を振り回している。それは死の苦しみに抗う為の足掻きのようにも見え、風音は泣き声で彼の名を呼びながら伸ばされた手を固く握った。

 紡樹、大丈夫?

 彼はまるで風音の意識を感じ取ったかのように僅かに頷き、ゆっくりと瞳を閉じた。それは耐え難い苦痛から来る意識の喪失では無く、自然に訪れる睡魔に引き込まれていくような緩やかな眠りだった。

 紡樹の確かな呼吸と体温を感じ、彼女の頬を涙が伝う。

 

 紡樹……、私ね、貴方に沢山言い忘れていた事があるの。

 

 風音がそう呟くと、強い風が通り抜け紡樹の髪を揺らした。しかし風音の長い髪と着衣は微動だにしない。それは彼女の肉体が此処には存在していない証だが、この光景は夢と呼ぶには余りにも鮮明で、紡樹が生きているという事実を認識するのに十分だった。

 

 私は空港で去り行く貴方に、ちゃんと伝えるべきだった。

 紡樹、私は貴方を愛してる。私には誰よりも貴方が必要なの。

 私が紡樹を必要としても、それを生きる為の意味として考えられないかも知れない。私にだって、何故自分が生きているのかをはっきりと言葉で説明する事は出来ない。でもね、全てが無意味ならどうして私達は生まれて出会い、生きていくの?

 悠遠の空に見守られ、大地を踏み締めて生きるだけでも、私は十分に意味がある事のように思えるわ。私は貴方に出逢えて生きる喜びを知った。貴方に触れて、貴方の温もりを感じて私は生きるという尊さを感じたの。

 正直に言って、私は生きる事が本当に辛かった。自分の心の奥底にある苦悩を誰にも分かって貰えず、それを口にする事も許されなかった。けれど、貴方は私が苦悩を口にしなくても、苦悩の中にある苦しみの核を温めて溶かしてくれた。私は貴方に救われて、何があっても生き続けようと思えるようになったのよ。

 例え貴方に私の言葉が届かなくても、私は祈り続けるから――

 お願い、元気になって!

 今度は私が貴方を助ける番よ。紡樹なら大丈夫、どんなに苦しくても立ち上がれるわ。立ち上がれたら私が貴方に肩を貸すから、一緒に歩いて行こうね。

 

 風音の意志が発する言葉が、眠っている紡樹の心を優しく温める。

 安らかな寝顔を浮かべる彼の髪が、再び吹いた風で揺らめくと、光に満ちていたこの場所が徐々に光を失っていった。ラピス・ラズリは今にも消えそうな弱々しい光を放ち、紡樹の顔を仄かに照らしている。

 

 紡樹、帰って来たら一緒に暮らそう。私達は二人共まだまだ未熟だから、支え合って生きていくの。紡樹が歩くのに疲れたら、私が貴方の手を引くわ。そして私が倒れそうになったら、以前と同じように私の心を温かく抱き締めて欲しい。

 

 そうやって、私達は生きていくの。

 

 光が消えていく。やがて大地を照らすのが月と星だけに戻った時、風音の意識は何処にも無く、唯彼女の居た気配を求めるかのように風の音が鳴り響いていた。

目次 第三章-1