第三章 天空からの降涙1豪雨と雷光の中を離陸した航空機は暫く荒天に揺さぶられていたが、雲の上まで上昇した後安定飛行に移行した。機内の気圧は平地よりも下がり、一定のエンジン音が機内に谺している。機内後方の窓際の客席で、一人の男が漆黒の空を見詰めているが、彼の表情もまた何も見えない夜闇のように虚ろだった。彼は運ばれて来た機内食にも殆ど手を付けず、唯虚空を眺めていたが、やがて疲れ果てたのか眠りに就いた。しかし彼は眠りに就いたにも関わらず苦悶の表情を浮かべ、時折小さく呻き声を上げていたが、それすらも儘ならない程に眠りが深くなったのか、規則正しい呼吸を始めた。それから彼は微動だにせず、航空機が着陸する寸前まで目を覚ます事は無かった。 世界はまだ夜明け前で、彼は凄まじい眠気で朦朧としながらも先刻までのものより小型の航空機に乗り換えた。彼が目指す砂漠までは航空機を乗り継ぐ必要があったからだ。そして再び離陸前に眠りに就き、今度は着陸後の減速が体を捉えるまで覚醒出来なかった。 彼は恋人も仕事も捨てて来た。絶望に心を侵され、希望を持つ事も出来ず最愛の人間の言葉も温もりも届かない。それどころか、その最愛の人間すら破壊しようとしてしまう。だからこそ堕ちていく自分を確実に止める為の唯一の選択をしたのだ。現実的に考えればその選択は唯一のものでは無い。だが、 視野が狭まり、コントロールを失った自我を抑える手段など持たず、紡樹には自らを殺す以外の選択肢は思い浮かばなかった。 小型航空機が目的地に着陸し、添乗員に案内されてタラップを降りた紡樹は大きく伸びをする。天穹の中心には目の眩むような激烈な光が在り、世界を焦がしている。彼は堪らず上着を脱ぎ長袖一枚になった。北半球では真冬でも、此方では真夏なのだと言う知識を現実のものとして実感しながら彼は目を細める。 「久々によく眠れたな」 紡樹はそう呟いた。こんなに眠れたのはいつ以来の事か分からないが、睡眠というものがどういうものだったか、彼は少し思い出せたような気がする。 紡樹は眩い光の中で限界まで大きく目を開き、果ての見えない余りにも広大な砂漠を見回す。赤錆色の砂漠はまるで一度炎に灼かれてその色になってしまったかのように見え、熱を孕んだ砂はその上に生物が存在する事を拒絶している。彼はその圧倒的な光景に言葉を失い、空港に向かう客室乗務員に急かされるまでの数秒の間立ち止まっていた。 ――灼砂。太陽に灼かれ自らも灼熱の存在と化す。この地には灼砂と砂岩、疎らに生えている草木、そして何処までも高く透明な空と太陽しか無い。俺が何故この不毛の地に惹かれ、共鳴したのか今なら分かる。此処では本来命に恵みを齎す筈の光の力が強過ぎるが故に水を蓄える事も出来ず、生物も容易には生きられない。俺の心はこの地と同じく如何なる潤いをも失い焼け爛れているのだ。 だが何故だろう? 俺の心は共鳴するだけでなく高揚している。この国に来てから、あらゆるものの表記が英語に変わり聴こえてくる言語も様々だ。たった一人異国に来たという実感と、寄る辺の無い緊張感が俺を高揚させているのだろうか? 「まるで旅行気分だな」 紡樹は自嘲的にそう呟き、前を歩く観光客に続いて滑走路から小さな空港へと向かっていく。空港で荷物を受け取った彼は、迎えの車に乗り込みホテルへと向かった。彼は一週間の宿泊予約をしているが、その間の食事を一食も予約していない。開け放たれた車の窓の外を紡樹は見るとも無しに見ているが、彼の瞳には灼砂の色しか映っていない。錆付いた鉄、乾いた血を連想させるような赤。 もう俺には失うものは無い。俺は俺に関わる全てを捨てたのだ。 一週間、それが俺の命の期限になる。それより後になれば、風音の家に「鍵」が届いているからだ。そうなれば風音は俺の遺書を見付け、必ず俺を捜そうとする。だからこそ、その時点で俺はもうこの世界で生きていてはならないのだ。 一週間。何故俺は、それだけの猶予を自分に設けたのだろうか? 誰にも悟られず確実に死ねる機会が巡って来るのを待つ為の期間だった筈だが、冷静に考えれば自分が死ぬのにそんな気配りをする必要があるのか。そして死ぬ為だけに一人でこんな遠い場所に来る必要があったのか。死に場所を選ぶと言えば聞こえは良いが、人目に付かない場所は国内に無数にあった筈なのに。 久し振りの長時間睡眠は彼の脳に溜まった疲労を僅かに回復させ、彼は本来の明晰さや冷静さを一時的に取り戻していた。だが、風音の首に手を回したあの夜の出来事がフラッシュバックし、それを振り払おうとするかのように彼は大きく首を振る。 もう何もかもが手遅れなんだ! 俺が風音に手を掛けようとしたのは厳然たる事実で、俺は彼女と居れば今度は本当に殺してしまうかも知れない。 人を殺める事を想像し、それを実行しようとする程に堕ちた俺に生きる価値など無い。俺はもう直ぐ死ぬ。果て無き時に灼かれた砂に埋もれて。 | |
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