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 紡樹が仕事を辞めた後の最初の週末、彼は風音と共に灯台のある海辺へと足を運んだ。ドライブウェイ脇に植えられた桜の花弁が風に舞い、淡い匂いが鼻腔をくすぐる。二人は、断崖から奥まった小さな砂浜へと続く急な階段を手を繋ぎゆっくりと下る。吹き抜ける海風は薄手のコートを着ていても身震いする程に冷たく、二人の他に人は見当たらない。潮騒の音が徐々に大きくなり、代わりに階段に散らばる砂利を踏む音が小さくなる。砂浜に最初の一歩を踏み出し、紡樹は独り言のように呟く。

「小説の書き方の本も何冊か読んだし、後は実際に執筆するだけだ」

 その声は海風を通り抜け、風音の耳に届いた。彼女は、視線を煌く海から隣で微笑む紡樹へと移す。誇らしげな彼の顔を見て風音も笑みが零れるが、彼女は彼の門出を手放しでは喜べずに居た。

「今までに、小説は何冊ぐらい読んだの?」

 出来るだけ相手の機嫌を損なわない、穏やかで自然な口調で風音は尋ねた。

「二百冊ぐらいかな。俺が本当に凄いと思った小説はその一割ぐらいで、他はそれぞれ何かしら考えさせられる事はあっても、心が揺さぶられるような事は無かった」

 紡樹は風音の表情から僅かな不安を汲み取る。彼は彼女を安心させる為に、執筆の期限を一年と決め、その期間に執筆した作品を文学賞に応募しても何の結果も出せないようなら仕事を再開すると約束していた。それでも彼女が表情を曇らせているのは、彼が未知の世界へと踏み出す事に少なからず不安を感じている所為だと思っていた。それを和らげようと紡樹は海を見詰めて目を細め、やがて風音を自分の胸に抱き寄せた。

「一年間本気で執筆すれば、文学賞受賞とまではいかなくても、最終選考ぐらいには残ると思うんだ。そうすれば、その作品を出版するのは容易い筈だ」

 風音は伏し目がちに紡樹の言葉を聞き、間近で見なければ分からない程度に頷く。紡樹の熱っぽい口調が逆に彼女に不安感を与えている事に、彼は気付かない。

 風音が何を心配しているのかも、紡樹には知る術が無い。人は過去の経験から外的変化には対応出来ても、内的な変化は実際に体験しないと理解出来ないからだ。

 笑顔の戻らない風音に対し、紡樹は更に言葉を重ねる。

「俺が書く小説のテーマはもう決まってる。テーマは『永遠』なんだ。誰にでも訪れる死は人々を絶望に陥れるけれど、永遠を引き裂く事は出来ない。

 永遠とは生まれた全ての者が生きた証を記録し保ち続ける目には見えないもので、それは未来永劫消えないものだと思う。きっとそれは概念では無くて、実在しているような気がする。その考えを元に少しでも永遠という救いを感じられる作品を書いて、未来に対して絶望している人達に希望を届けたい」

 風音は苦しげな表情を浮かべて、何かを考えている。紡樹はその様子を見て、唐突な話なので理解するのは難しいのだろうと解釈した。幾度かの潮の満ち干きの音が二人の間を流れる。紡樹は沈黙に耐えられなくなり、風音の手を引き海へと歩く。

「テーマが『永遠』じゃ駄目だと思う?」

 紡樹がそう訊くと、風音は直ぐに首を振った。

「そんな事無いよ。あんまり無理しないように、頑張ってね」

 風音は夢から醒めたかのように唐突に微笑み、紡樹に抱き付いた。紡樹は慈しむように彼女の髪を何度も撫でる。波間に見える輝きの粒が紡樹の目に沁みていく。

 

 それから紡樹は、翌年の三月までの一年を掛けて一つの作品を書き上げた。その作品は、恋人の邂逅と死を通して、人が持つ深遠な愛は死によって分かたれる事は無く、時を越えて巡り続けると言う事を伝えるもので、初めて書いたとは思えない程の高い文章力で書かれていた。それは客観的に見ても量産されている標準的な小説のレベルに達しており、風音も母も大いに驚いていた。

 紡樹は、風音達に読んで貰った小説の誤字や脱字を直しただけのものをそのまま紐で綴じ、意気揚々とファンタジー小説をメインに扱う公募文学賞に応募する。少なくとも最終候補ぐらいには残る自信があり、紡樹は主催者側からの連絡を気長に待った。

 

 しかし春が過ぎ去った初夏の午前、連絡が無いまま一時選考通過者の一覧が主催出版社のウェブサイトで公開されたが、其処に紡樹の名前は無かった。

 何度もページをリロードして、モニターを見返してみても自分の名前が浮かび上がる事は無い。紡樹は言葉を失い、頭の中が真っ白に塗り潰され消えていくような感覚に陥った。呼吸が浅くなり息苦しさで我に返った頃には、モニターは省電源モードで真っ黒になっていた。体中から力が抜け、紡樹はベッドに横になるのがやっとだった。目を開けるのも億劫で、紡樹は目を閉じる。思考が纏まらないまま、時が流れていくのに身を任せていると携帯電話が鳴った。携帯には、今一番話をしたくない相手の名前が表示されていたが、いずれ話をするのだから同じだと自分に言い聞かせて受話ボタンを押す。

「もしもし? 随分出るの遅かったね」

「ああ、寝てたからな」

 二人は無言になる。風音がこのタイミングで電話して来て、しかも何も喋らないのは自分と同様に彼女が文学賞の結果を知っているからだと紡樹は確信する。ならば自分の口から事実をはっきりと告げた上で、今後について話さなければならないと考えた。

「文学賞の結果が出たよ」

「うん」

 即答する風音。彼女の声は緊張で強張っている。紡樹は深呼吸して、自分がまだ消化していないにも関わらず、向かい合わなければならない現実を口にする。

「俺の作品は、一時選考すら通らなかったみたいだ」

 彼はそう言った瞬間、吐き気が込み上げてくるのを感じた。携帯を持つ指先が震えている。平静を取り戻そうと何度も呼吸を繰り返していると、風音が一言一言がはっきりと聞こえるように、ゆっくりと告げる。

「初めて書いた小説で、あれだけのものが書けただけでも凄いと思うわ」

 風音の言葉が頭の中に響く。しかし紡樹は首を振り答える。

「でも俺の作品は完全に拒絶された。俺が今までの人生で初めて本気を出したものだと言い切れるのに!」

 風音は何かを言おうとするが、今の紡樹には逆効果かも知れないと考え黙り込む。紡樹は会話をしているだけで自分の心が擦り切れそうな気がして電話を切った。今後の身の振り方を話す余裕など無かった。

 

 それから一週間、紡樹は殆ど誰とも口を聞かず食事も喉を通らなかったが、結果を出せなかった以上は働かねばと、鉛のように重い体を動かしウェブで求人を探す事にした。しかし興味を覚えるような会社は無く一時間も経たない内に彼はノートパソコンを閉じた。

 小説家を目指すからと、大見得を切って辞めた会社に戻る訳にも行かず、かと言って元居た会社よりもランクが下の会社に入社するのは彼のプライドが許さない。元々自分の実力に自信があった彼が最終的に選んだのは、フリーランスのエンジニアになる事だった。フリーランスは実力のみが評価され、組織に縛られて余計な時間を使う必要も無い。小説について考えるだけで気分が悪くなるが、フリーランスなら将来再び執筆したいと思った時に、時間の都合を付け易いのもメリットだった。

 紡樹は早速フリーランスを扱う組合に連絡を取り面談を受ける。その翌日には仕事を紹介され、紹介を依頼したクライアント先で紡樹は働く事になった。スムーズに仕事が決まったのは彼自身が三年間の会社員時代に培った能力が評価されただけでなく、多くの企業がIT化に投資を惜しまないようになり、慢性的にエンジニアが不足していた事が大きい。

 

 仕事を再開した事で風音と母は大いに安堵したが、紡樹は自分が自分では無いような抗い難い違和感が日増しに強くなるのを感じていた。夢の実現を成し得なかった無力感、理想と現実との乖離による自分への怒り、そして新しい職場で働く事へのストレスが重なった為だと彼は自己分析する。しかし自己分析してみても違和感が消える事は無く、ついには眠る事さえ難しくなった。寝ようとしても何かを考えてしまい、一向に眠くならないのだ。体は疲れているのに脳が思考を停止しない事に紡樹は恐怖を覚える。眠る為には、疲れ果てて無意識に眠るまで起きているしか無かった。

 心身への負荷が高い状態が続き、彼は過労で亡くなった父の事を思い出して身震いをした。自分もある日突然、あんな風に死んで白い骨だけになってしまう。それなのに自分の居ない世界はそれまでと何も変わらずに続いていくのだ。それを考えると言い知れぬ恐怖に襲われた。

 

 充実感に満ちていたシステムエンジニアの仕事が無味乾燥に思え、週末の楽しみだった風音に会う事も今では避けられない義務のように感じる。

 

 紡樹は追憶を終えてベッドから起き上がり、再び煙草に火を点けた。ネガティブな自分から脱却する為の鍵は簡単には見付かりそうも無かった。

目次 第一章-9