9眠りが紡樹を迎えたのは、朝陽がカーテン越しに射し込み始めた頃だった。しかし、一時の安らぎは掌に落ちた淡雪のように儚く消える。実質眠れたのは二時間程度で、それ以上は眠れる気がしなかった。 紡樹は今日が日曜である事に感謝しつつ、丸一日を無為に過ごす。この日は母も体調が悪いようで夕食は中華の出前を取った。紡樹の好物ばかりだったが、味を殆ど感じない。生きる為に仕方無く口に物を運び、飲み下しているだけのように思えた。明日から再び仕事が始まるのにも関わらず、この日も眠りは紡樹を受け入れようとはしない。彼は焦燥の余り叫びだしたくなるのを堪え、微動だにせず瞼を閉じていた。 長い時間の果てに、ジリリリと意識を引き裂くような音が聞こえる。 何の音だ、黙れ! 紡樹の拳が、時間を貫きながら不快な音を発している置き時計に叩き付けられる。拳に鈍痛が奔り、時計は床に転がった。重く粘っこい静寂が紡樹を覆う。 ――頭が痛い。何だ、この感覚は。物事の「意味」が分からない。俺は……、何だ? 何の為に此処に居る? 自分とは何を意味する? 目の前に映る光景が何を意味しているのか分からない。さっきまで金切り声を上げていて、今は床に転がっているあれは何だ? 俺は苦しい……、苦しい! 頭が痛い、心が苦しい! このまま、全部消えてしまえば何も考えずに済むのに! 紡樹は俯きながら何度も首を振る。人は眠りによって記憶や経験を整理し、それを自我へと反映させる。毎日全身の細胞が少しずつ生まれ変わっているのに、以前の自己と現在の自己を同一視出来るのはその為だ。しかし、不完全な睡眠と過剰なストレスにより彼は一時的に自己認識が困難になっていた。 目を瞑り懸命に意識の欠片を集める。それは光り輝く小片で、彼の自我が砕かれたものだ。肩で息をしながら、意識の中心に集まった欠片が巨大な光を放つのを感じられるようになると、ようやく彼は現状を把握出来た。 彼はいつの間にか眠っていて、眠りが深い状態で目覚まし時計に起こされたのだ。早く着替えて準備をしないと仕事に間に合わない時間だ。いつもなら、目覚ましが鳴っても彼が下りて来ない時は母が起こしに来るのに今日は何故か来ない。 紡樹は眩暈を覚えふらつきながらも、二階のリビングへと階段を下りる。彼は母の姿を捜したが、つい先程まで料理をしていた形跡があるにも関わらず母は見当たらない。彼は背中を冷たい汗が伝うのを感じ、大声で母を呼ぼうとする。その時、すぐ近くで呻き声が聞こえた。声はキッチンカウンターの向こう側、ガスコンロの近くからだった。紡樹はガスコンロに向けて数歩踏み出してから突如歩みを止めた。 「母さん! どうしたんだよ?」 やっとの事で声を振り絞った紡樹の視線の先には、仰向けで床に倒れている母の姿があった。血の気が引き、苦悶の表情を浮かべていると言うよりは顔が歪んでいる。紡樹は彼女に駆け寄り、だらんと床に垂れた右手を握り締める。彼女の手は温かいが、全く力が入っていないようで握り返しては来ない。 「紡樹……、今日は、お弁当、作れなかった、の。ごめんね」 発音が曖昧で、歯切れが悪い。彼の脳裏にあの日の父の顔が鮮明に浮かぶ。 「そんな事気にするなよ! 直ぐに救急車を呼ぶ。だからじっとしててくれ」 紡樹が母の手を離し、ドア脇の固定電話に向かおうとした瞬間、彼女は左手を伸ばし紡樹の足に触れた。母は何かを伝える為に口をぎこちなく動かしていた。紡樹は再びその場に屈み、彼女の声に耳を澄ませる。 「紡樹……、一つ、だけ、忘れ、ないで。あなたは、必要とされて、生まれて来たの」 その言葉が紡樹に聞き遂げられた事が分かると、母は意識を失った。紡樹に触れていた左手が床に落ち、コトンと小さな音を立てる。その音を合図とするかのように、紡樹の瞳からは熱い雫が零れ始める。 何でそんな事を今言うんだよ? まるでもう会えなくなるみたいじゃ無いか。人は死ぬ為に生まれて、死に向かって生きる。でも残された人間の苦しみ、母さんなら分かるだろ。父さんが死んで俺達二人で頑張って来たじゃ無いか。母さんには沢山苦労を掛けた。なのに俺は何一つ恩返しをしていない。父さんに俺を生んでくれた感謝を返せなかった分、母さんに返そうと思ってる。俺にとっても母さんは必要なんだ、だから死ぬなよ! 紡樹は混乱しながらも、救急の電話を掛ける。五分後救急車が到着し、救急隊員が母を担架で運び救急車に乗せ、紡樹も同乗した。救急隊員は母に対して呼び掛けるが反応は無い。腕を抓っても反応を示さなかった。だが浅い自発呼吸は続いており、脈拍もあるようなので紡樹は安堵する。しかし、母の瞳孔をライトで確認すると一瞬隊員の動きが止まった。隊員が何処かの病院に電話を掛ける。専門用語は分からなかったが、母が重篤な状態である事だけは理解した。 地元では名の通った大学病院に運ばれた母は直ぐにICUへと姿を消した。紡樹は待合室の長椅子に座り、呆然と床に視線を落とす。もう何も考えたく無かったが、勤務先に電話だけはしなければと腰を上げて外に出た。途轍も無く長い時間が流れたように感じたが、まだ勤務先の始業時間にはなっていなかった。 病院の外では、蝉時雨が天空を焦がす太陽の光と共に降り注いでいた。 | |
目次 | 第一章-10 |