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 大学を卒業した紡樹は、大手のシステムインテグレーション企業に入社した。大学で自主制作映画の編集などでコンピューターに慣れ親しんでいたのが入社の切っ掛けだった。先輩の中には映像や音響関係に就職する者も居たが、紡樹はその方面に進もうとは考えなかった。彼は自分が作った映画は大学では好評でも、客観的に見てそれで一生食べていけるレベルだとは思っておらず、映画は趣味に留めておくべきだと判断したからだ。

 一年後風音も卒業し、彼女は外資系の化粧品会社の貿易事務職に就いた。二人共、職場は自宅から近いので恋愛関係はそれまでと変わらずに続いていく。寧ろお互いが違う環境に身を置く事により、会話に新鮮さが生まれた。

 

 風音が新人研修を終えた煮えたぎるような熱気を孕んだ夏のある日、二人は仕事帰りにレストランに出掛けた。ビジネス街にありながら家庭的な内装のイタリアンの店で、紡樹が以前職場の先輩に連れて来て貰い気に入った店である。

 紡樹はまず風音の話を聞いた。研修を受けて覚える事や勉強すべき事が沢山ある事、大学では得意だった英語が会社の要求する水準に全く届かない事。風音が気兼ねなく自分の思った事を何でも話せるのは紡樹だけであり、彼女は自分の両親にさえも遠慮をするので饒舌になるのは仕方が無い。風音は思い付いた事を話し終えて水で喉を潤し、今度は紡樹に話を振る。

「紡樹は最近仕事はどうなの? 紡樹の事だからきっと問題無いと思うけど」

 風音は微笑む。

 その微笑は人に見せる為に作ったものでは無く、紡樹への好意から無意識に生まれるもので、本人すらも笑っている事に気付いていない。そんな笑顔が出来るとは、紡樹に会うまでは風音自身も知らなかった。

「ああ、順調だよ。プロジェクトリーダーや関連部署の進め方がまずくて残業する時もあるけど、俺自身は三・四年目の先輩達と並んで仕事をしてる。俺は同期の中では一番優秀かも知れないけど、もっと凄い能力を持った人達が居るから頑張らないとな」

 紡樹は不敵な笑みを浮かべ腕を組んだ。風音は頷き慈しみを込めた瞳で紡樹を見詰める。

「紡樹が優秀なのは知ってるし、これからも普通の人には負けないと思う。でも、どれだけ頑張っても駄目な事ってあるから、謙虚さを忘れない方がいいよ」

「はいはい、風音は厳しいなぁ」

 紡樹は左に首を少し傾けて右手で頭を掻いた。彼には風音の言葉が心の奥底までは伝わらない。要領が良く、少しの努力で最大限の結果を出す彼に分かる筈も無かった。

 二人は食事を終え、紡樹はコーヒーを、風音は紅茶を飲む。

「そうだ、俺は最近会社の人に薦められて本を読むようになったんだ」

 紡樹が仕事用の鞄から黒革のカバーに収められた文庫本を取り出す。それは著名な男性作家の小説で、栞が前から四分の一程度のページに挟まれている。彼はそれまでに本を殆ど読んでこなかったので読む速度が遅い。

「へぇ、私もたまに読むよ」

 風音が身を乗り出し、紡樹の本を手に取る。紡樹は得意げに話を続ける。

「この前読んだ本には、とても印象に残る一言があった。それは『この国には何でもあるが、唯希望だけが無い』って言葉だった」

 僅かに表情を曇らせて首を傾げる風音に紡樹は言葉を継ぐ。

「俺は何となく分かるような気がする。希望って、これから先が今以上に素晴らしいものになると思える期待だろ? ある程度の高みにまで上るとなかなか先が見えなくて、希望を見失うんだ」

 風音の顔から完全に笑顔が消える。彼女はたまに、紡樹の何でもない一言で無口になる時がある。紡樹はそれを知っており、暫くそっとしておくのが最良の方法だと以前に学んだ。彼は辛抱強く風音の言葉を待つ。紡樹がコーヒーを二口含んだ所で彼女は口を開いた。

「……その本の言ってる事も、紡樹が話した事も正しいと思う。でも、無理にでも一つぐらいは希望を持たないと人は生きていけないわ」

 彼女はそう呟くと肩の力を抜いた。張り詰めた空気が弛緩したものへと変わる。紡樹は彼女の言葉の真意を考えたが分からない。風音の言う希望とは、いつも紡樹が持っているものであり失った事の無いものだからだ。

 

 祝福された生と、孤独に蝕まれた生。それが二人を大きく隔てる感覚の根源である。

 

 それから二年後の三月、紡樹は人々に「希望」を与えるような小説を書く為に会社を辞めた。風音は小説を書く為に会社を辞める必要は無いと諭したが、紡樹は「本気で執筆したい」と反論し聞き入れようとはしなかった。彼は本の持つ魅力と影響力に取り憑かれ、執筆する事こそが自分の進むべき道だと信じて疑わなかったからだ。

 

 しかし、人に希望を与えると言う行いが如何に難しいかを紡樹は知らなかった。

目次 第一章-8