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 紡樹と風音が出会ったのは、紡樹が大学二年生、風音が一年生の時だった。当時紡樹は映画研究サークルに所属しており、新入生の勧誘も行っていた。風音は紡樹の勧誘に興味を持ち新入生歓迎コンパに参加する。それが二人にとっての始まりだった。

 

 四月下旬の金曜日の夕方、大学近くの繁華街にある比較的大きな居酒屋の五十人程度が入れる座敷でコンパは始まった。四年生は引退しているので、二・三年生合わせて二十二人、新入生は十四人で合計三十六人が座敷に座っている。乾杯の前に新入生の自己紹介が始まった。

 殆どの新入生はぎこちないが精一杯の笑顔を浮かべて懸命に自己紹介を行った。湧き上がる拍手が、順番待ちの新入生にプレッシャーを与えるが、紹介を終えた者は一様に安堵の表情を浮かべていた。

 風音の番は最後だった。彼女は新入生の中で最も美しく、上級生の男達からの視線をコンパの最初からずっと集めている。その様子に女達が気づかない筈も無く、女からは冷ややかに見られていた。風音は場にいる全員を見回してから軽く頭を下げ自己紹介を始める。

「初めまして! 氷上(ひかみ) 風音です。映画については知らない事ばかりですが、先輩の皆様そして同級生からご教授頂き、自分でも楽しく学んでいきたいと思っています。ご迷惑をお掛けする事もあると思いますが、精一杯頑張りますのでどうぞ宜しくお願いします!」

 風音は自然な微笑みを浮かべて、深く頭を下げた。礼儀正しく、はっきりと話す風音に場の全員は驚いたが直ぐに喝采を送った。女達も、風音は自分に厳しく男に甘えるような性格では無いと判断して緊張を解いた。だが、紡樹だけは風音の朗らかな人柄と温和な話し口調に対して、何処か違和感を感じていた。

 飲み会の間ずっと風音は上級生や同級生から引っ張りだこだった。彼女は人の話に対してちゃんと相槌を打ち興味を注ぐ。注がれた酒は嫌な顔一つせずに飲み干していた。彼女が紡樹の所に来て間近で彼女の顔を見た瞬間、紡樹は違和感の正体を理解した。

 風音の笑顔は誰が見ても自然に見えるが、その自然さが作りものなのだ。言い換えれば自然に笑う事が出来ないので、長年の訓練で獲得したような精巧な笑顔。紡樹はその笑顔に見覚えがあった。それは、父を喪ってからの母の笑顔だった。自然に笑っていても、それは父を喪う前とは明らかに違う。心の充足が空虚に置き換わる事により、表情に若干の変化を齎したものだと紡樹は思っている。紡樹と風音はその場では挨拶程度しかせず、風音は一次会のみで帰路に就いた。

 

 紡樹は同級生と二次会でも飲み、終電間近になったので解散した。解散後は三次会に行く者と帰宅する者に分かれ、紡樹は明日の一時限目出席に備えて帰宅する事にした。帰宅する同級生は数名いたが、紡樹以外は下宿だったので紡樹は一人で駅へと急いだ。

 駅の改札を抜け、携帯の時計を見ると終電まで後五分あった。紡樹の家までは此処から一時間程度掛かるので、彼はトイレに行った後ホームへと上る階段へ向かった。その途中、紡樹は階段へとふらつきながら歩いている若い女性に視線を奪われる。彼女は青褪めた顔をしていたが、その瞳からは誰の力も借りたくないと言う強い意志を感じる。紡樹は自分の確信が正しかった事を知り、彼女に駆け寄った。

「氷上さんだよね?」

 彼女は訝しげに紡樹を見たが、彼が誰だか分かった瞬間に微笑みを作った。その微笑みが自然に見える事が余りに痛々しく紡樹は一瞬彼女を抱き締めてやりたい衝動に駆られた。

「はい、氷上 風音です。(つき)(しろ) 紡樹さんですよね。こんな遅くまで飲んでいたんですか?」

 紡樹は、飲み過ぎで風音の体調が悪い事も、彼女が知人の前では虚勢を張っている事にも気付いていたが、それに直接触れる事はするまいと思った。だがこのまま彼女が無理をし続ける事を止めさせよう、それが出来ないならばせめて自分だけはそれを理解しておこうと考える。

「そんなに、無理して皆に気を遣う必要は無いって。在りのままの自分を受け入れてくれないような相手なら、仲良くなる必要なんて無いだろ? 自然体が一番!」

 紡樹は風音の鞄を持ち、一緒にホームへと向かうよう促した。しかし彼女は一歩も歩く事無く俯いていた。彼女がそれ程までに疲弊しているのかと思い、彼女の顔を覗き込むとその両の瞳からは大粒の涙が零れていた。

「ごめん……、悪い事を言ったよな」

 紡樹がそう言った瞬間、風音は思いっ切り首を振り、飛沫が紡樹にまで届いた。風音は無言のままその場から動けず、ようやく階段を上り始めたのは紡樹の終電が発車して暫く経った後だった。風音はこの駅から二駅しか離れていない場所に住んでおり、終電はまだあったので紡樹は彼女が電車に乗るのを見送った。紡樹は反対のホームから帰ると風音には伝えていたが、家に帰れる電車がある筈も無く自宅に電話してから下宿している友人に泊めて貰う事にした。

 

 二人はそれから幾度も言葉を交わし、紡樹は風音からの並々ならぬ好意に気付いてはいたが、敢えて自分から好きだと伝える事はしなかった。それは彼女が他人に気を遣い過ぎる事を知っており、自分から好きだと伝えられるようになるのを待っていたからだ。それを言えるという事は即ち、紡樹への遠慮よりも自分の想いが上回っている事を意味する。

 夏休み前の七月のある日、透き通る空に無数の星が鏤められていた夜。風音は灯台の見える浜辺で紡樹に告白し、紡樹はそれを受け入れた。時折海面近くで海ホタルが淡く光るのを、二人は抱き合いながらずっと眺めていた。

 

 風音の弱さは紡樹が想像していた以上のものだったが、彼はそれも含めて風音を愛そうと決めた。

目次 第一章-7