5二十七年前、紡樹はまだ自ら呼吸する生命としてはこの世界に存在していなかった。しかし、間も無く一人の人間として生まれるべく胎動を繰り返していた。 人は生まれる事を自ら選択する事は出来ず、命を生み出すのは全て親の意思による。しかし一度芽吹いた命は強靭そのもので、猛烈な速度で生きる為に自らを変化させる。始まりはたった一つの小さな細胞に過ぎないのに、一つの生命として生まれて来る頃にはそれが無数に増殖し分化している事から考えても、生命が生きようとする本能を持っているのは明白である。紡樹もまた、確固たる意志を胸に羊水に浮かんでいた。 紡樹の両親はまだ家を所有しておらず、父親の勤務先に近い場所にある築十五年のマンションの2LDKの部屋を借りて住んでいた。ソファに座る紡樹の母のお腹を、仕事から帰って来たばかりの父親が愛おしそうに何度も撫でる。 「仕事の合間に考えてたんだけど、これから生まれてくる子の名前は『紡樹』でどうだ?」 母は視線を上げ、僅かに首を傾げて微笑みながら父の顔を覗く。 「いい響きだけど、どんな意味があるの?」 父は目を細めながら虚空を見詰める。そして、照れくさそうに笑みを浮かべて口を開く。 「この世界にあるものは、どんなものでも少しずつのものが積み重なって出来るだろ。美しい布が無数の紡がれた糸から織られるように。俺達が此処に一緒に居られて、新しい命を授かったのも、数え切れない小さな奇跡があったからだと思う」 母は視線を自分のお腹に移し大きく頷いた。 「そうね、この子はきっと私達家族の幸せを紡いでいく子になる。ね、紡樹」 彼女の呼び掛けに紡樹は全身を動かす事で反応する。彼には母の声も感情の動きさえも感じ取る事が出来た。彼は生まれる前から惜しみない愛情を注がれ、生きる希望を蓄えていった。 生きる事は挫折と絶望の連続であり、乗り越えるにはそれ以上の希望が要る。希望は他者から与えられるものと自ら創り出すものがあるが、最初の希望は自分が愛されて生まれるという実感である事を胎児は本能的に知っている。 やがて紡樹は小学校に進学し、学業に於いても運動に於いても優秀な成績を修めた。紡樹はその日の出来事を両親に報告し褒められる。そして両親はそんな息子を誇りに思っていた。彼にとって他人より優秀である事は当たり前であり、褒められる事も日常の一部だった。ある日彼は風呂で父に尋ねる。 「ねぇ、お父さん。どうして頑張ってるのに、勉強や運動が出来ない人がいるの? 学校では努力すれば誰でも出来るって教えてるのに」 父は息子の頭を撫でながら伝えるべき言葉を捜す。彼は立ち昇る湯煙を暫く眺めた後、下手な嘘を吐いて誤魔化すよりも、紡樹には真実を知らせるべきだと判断した。 「人は生まれながらに能力は平等じゃ無いんだ。多少は努力で何とかなるけど、どうしようも無い部分の方が多い。でも、勉強や運動が出来ない人間が駄目だって事は無い。人には得意な分野があって、例えば凄く絵が上手いとか、誰にでも優しいとかみたいにね」 紡樹は湯船に映る自分の顔を覗き込み、暫く思索を巡らせる。 「でも学校で褒められるのは、勉強や運動が出来る子供だよ」 「評価基準が分かり易いし、その二つが将来役に立つ事が多いからさ。その他の能力は普通の学校では目立ちにくいんだ。だからと言って、自分よりも勉強や運動が出来ない人を馬鹿にしちゃいけない。その子達も紡樹より凄い何かを必ず持ってる筈だよ」 紡樹は眉を顰めていたが、父の真剣な瞳を見て大きく頷いた。父が真剣な顔で自分に何かを語る事で、今までに間違っていた事は無かったからだ。 彼は父を尊敬し父の言葉を信じて生きてきたが、たった一度だけ激しい憤りを覚える事になる。それは遣り場の無い怒りであり、今まで注がれた慈しみの反動でもあった。 中学も半ばを過ぎ、紡樹が高校受験について考え始めた頃、父親は課長に昇進しその仕事は多忙を極めた。彼は大手総合商社に勤めていたが、業務拡大による人事異動で新業務部門の課長に抜擢されたのだった。彼は会社に泊まりこみ、週に一度程度しか帰って来なくなった。それでも帰宅時には充実した顔をしており、妻と子にも今まで通りに接していた。 しかし、そんな生活が半年程続いたある日、彼は帰宅するなり玄関でうつ伏せに眠り込んだ。酔っている訳では無いので、寝不足だろうと考え紡樹は父を寝室まで運んだ。 父の体は息が詰まる程に軽かった。 いつの間にか背を追い越し、体つきも父より大きくなっていたのは分かっていたが、それでも実際に背負うまでは父は自分にとって見た目よりも大きな存在だったのだ。紡樹と母が見守る中、ベッドに横たわる父は薄目を開ける。 「運んでくれたんだな、ありがとう。くっ……」 彼は目をきつく閉じて額に手をやる。彼の顔からは血の気が引いており、目も落ち窪んでいる。眼下は誰の目にも明らかな程黒ずんでいた。 「あなた、暫く仕事を休んで病院に行って」 突き刺さるような強い口調で母は父に言った。今までに何度も懇願して来たが、聞き入れられなかったからだ。 「少し頭が痛いだけだって。眠れば治る。それに、今はどうしても休めないんだ。俺が休むと会社の仲間が困る」 父はいつもそう言って休もうとしない。俯いて首を振る母を見て紡樹は口を開く。 「でも父さんが倒れたら、俺達はどうなるんだよ? 仕事も大事かも知れないけど、もっと自分を労わってくれよ!」 父は声を張り上げた紡樹に驚き、最初は微動だに出来なかったがやがて項垂れた。 「……そうだな、来週も頭が痛いようなら病院に行く。だから今は眠らせてくれ」 穏やかな彼の口調に、紡樹と母は安堵し部屋を出て行く。この時には既に父は重篤な状態になっていた事を三人は知らない。 翌日、父は出社中の電車で倒れそのまま意識が戻る事は無かった。 不意に訪れた父の死で、二人はゆっくりと悲しむ間も無く葬儀の準備を進めなければならなかった。特に母は親戚への連絡、葬儀会社や父が勤めていた会社との遣り取りで眠る時間さえ碌に取れなかった。二人が考える時間を持てたのは、父が真っ白な骨と灰に変わり果てた後だった。人の命が終わったのに、その余りの呆気なさに二人は言葉を失った。動かなくなった父の前ではあんなにも泣けたのに、壷に収まった無機質な白い骨は二人に唯、空虚を齎すだけだった。 葬儀は、これからも生きていかなければならない生者が死者に対する心の整理をする為の儀式なのだ、と紡樹は思った。 「母さん、これからは俺達二人だけど俺は父さんの分まで母さんを助けるよ」 斎場からの帰り道、紡樹は歩きながら視線を進行方向から逸らす事無くそう言った。母も紡樹を見る事なく答える。 「うん……。お願いね」 彼女はゆっくりと歩きながらも、肩を落とし呆然としている。しかし、明日からは一人で息子を立派に育てなければならないと自分に言い聞かせる。唯、今日だけは共に歩んで来た愛する人の事だけを考えて眠ろうと考えていた。 そして紡樹は父への愛情が悲しみに塗り潰され、その一部が怒りに変わりそうになるのを必死に堪えていた。父が自分達を遺して逝ってしまった事、もっと早くから父を労わっていればとの後悔、そして与えられたものを何一つ返せなかったという自責の念が紡樹を苛立たせた。また彼自身は気付いていなかったが、何の不自由も無いある意味「完全」だった家庭が大きく変容した事で彼の心の奥深くが傷付き、どろどろとした血を流し始めていた。 その晩紡樹は階下からの母の嗚咽を聞き、それを掻き消そうとするかのように声を上げて泣いた。 | |
目次 | 第一章-6 |