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 降り出した驟雨が車のフロントガラスを叩き、紡樹はワイパーの速度を上げて無言で前だけを見詰めている。

 自宅まで後十分程度の場所にある交差点に差し掛かり、紡樹はワイパーが作り出す雨の切れ間から一瞬覗いたものに気を留めた。それは、交差点脇の歩道で若い女性が胸に抱えた赤いネリネの花束だった。彼女は鮮やかな花とは対照的な、白いワンピースを着ており、その色は闇に浮かび上がっている。

 女性は空虚な表情を浮かべ、周りに注意が向いていない。状況から愛する人を事故で喪ったのだろうと紡樹は推測した。今まで傍に居て当たり前だった人がたった一瞬で理不尽に奪われる、その痛みが彼には分かる。彼の父は過労による脳梗塞で急死したからだ。父を喪った時には実感が無かったが、父が好きだったものを見た時、父に話したい事が出来た時にこそ不在を強く感じるのだ。

 紡樹の思考が先の見えない闇へと伸びる。

 

 ――人は一人で生まれ、一人で死ぬ。家族も恋人も、その人間の生と死を肩代わりする事は出来ない。それが孤独で無くて何なのだろう。孤独だからこそ人は生きている間は誰かと寄り添わずには居られない。

 人は何の為に生きるのか。生まれた者は必ず死ぬのに。

 命ある者は全て死に向かって生きるだけだ。その事に意味はあるのか? 否、意味は他者から齎されるものでしか無いのだから、生きる事自体に意味は無い。

 生の結果は唯一つ、死だ。あらゆる生命は死ぬ為に生まれ、死ぬ為に生きている。生きる事は過程でしか無く、結果は同じなのに何故足掻く? 生きる事は虚しい。

 

 紡樹は明確な答の見付からない思考に耽りながらも、自宅へと車を走らせる。驟雨が零雨へと移り変わる頃、彼は帰宅した。母は既に眠っており、彼は物音を出来るだけ立てないようにしながら風呂に入り、寝支度を整える。

 彼がベッドに横たわり電灯を消すと、自身の息しか聞こえない密度の濃い静寂が訪れた。雨は完全に止んでいる。窓を開けているのにも関わらず、風の音も虫の音も聞こえない。彼は無音に恐怖を感じ、窓を閉じてエアコンを入れた。ファンが回る一定の音が安らぎを与えてくれる。紡樹は目を閉じたが思考は途切れる事は無く、寧ろ他に何もしていないので思考の範囲は広がるばかりだった。

 

 俺の命は本当に必要とされているのか?

 

 母親や風音は俺を必要としてくれているが、仮に俺が死んだ場合どうなるのか。間違い無く二人は悲しみに暮れるだろうが、それだけだ。悲しまれるだけで、俺が生きていたと言うリアルな実感は少しずつかも知れないが、やがて失われる。俺が父親の事を記憶の片隅にしか留めていないように。

 父親は何の為に生きたのだろう。俺を生み、母に一時の幸せと長きに渡る苦しみを与える為か? それとも、自分の命と引き換えに俺達母子に薄れ行く愛情を残す為か?

 俺はどのように生きる? 誰でも出来るような、誰でも代替になり得るような仕事に生涯を費やす為か。それとも、再び人に希望を与える小説を書く事に情熱を注ぐのか。

 小説は……、書けない。小説の事を考えるだけで吐き気すら覚えるのだから、執筆など出来る筈も無い。ならば、望まない仕事で金を稼ぎ惰性のままに生きるしか無いだろう。そんな人生を俺は楽しめるだろうか? 答は分かりきっている。

 俺は今までどうやって生きて来たのだろう?

 これまで、生きるという事を真剣に考えた事は無かった。そして生きる事そのものが辛いなどと思った事も無かった。父が死んだ時には涙が止まらなかったが、俺は父の分まで生きて母を助けていこうと決めていた。その決意を胸に、俺は母と二人で生きて来たのだ。母には苦労と心配を掛けて来たが、母を悲しませるような事はしなかった。

 思い返せば、俺は幸せ過ぎたのかも知れない。毎日どのように眠っていたのかも分からなくなる程の苦しみを今まで味わう事が無かったのだから。目を瞑っても眠くならない、思考を止めようとしても止まらない。自分がちゃんと呼吸出来ているのかさえ不安になる。そんな苦しみがある事など、想像も出来なかったのだ。

 

 カーテン越しに届く街灯の薄明かりが掛け時計をぼんやりと照らしている。紡樹が薄目を開けて時計の針を見ると、午前四時だった。掛け布団を被ってから既に二時間近くが経過しているのにも関わらず、眠りが彼を誘う気配は無い。

 彼は起き上がり、煙草に火を点けた。執筆していた期間は禁煙していたが、仕事を再開してから再び吸い始めていた。しかも本数は執筆前よりも増えている。部屋中に靄がかかり、それをエアコンが吸い上げる。紡樹は掛け時計を外して、再び布団を被った。そして、幸福だった過去に思いを馳せ、現状を打破する鍵を探し始めた。

目次 第一章-5