§第三章 心を受けて§
【第一節 記憶の層】
私は、『何』だ?
私とは『何』を意味する?
肉体と精神を兼ね合わせたものを『私』と呼ぶならば、『私』は『私』では無い。だが、精神は『ルナリート』のままでいるらしい。記憶は鮮明で、思考能力も平常通りだ。だから、『私』を『私』と称しても問題は無いだろう。
私は、完全に肉体を失っている。
動かすべき体が無いのは妙な感覚だ。無意識に行っていた呼吸、心臓を動かす事、意識的に動かす事の出来た体は何処にも無いのだ。
此処が何処かも解らない。否、視覚も聴覚も、触覚さえも持ち合わせていない私が場所を認識するのは不可能だ。
残されているのは、『心』と『記憶』のみ。
痛みや苦しみ、悲しみによって顕れる体の反応(震えたり涙を流したりする反応)は最早私には存在しない。
フィーネ、シェルフィア、リルフィの温かさを記憶の底から呼び覚ます事は出来ても、その温かみを腕や胸に感じる事は無いのだ。
これが『死』か……
『私という精神』が、たった一人揺ら揺らと、真っ黒で何も見えない水の底に沈んでいるようなイメージ。遥か上、無限に広がる水面……。決して浮かび上がる事の出来ない、深い深い水底。
だが不思議と孤独感は無い。水底でたった一人なのに、愛する人々に囲まれて温かな毛布で眠るかのような安堵を覚えるからだ。
私が死に、この『温かな毛布のような世界』に来てどれぐらいの時間が流れたのだろう。その前に、この世界で時間は流れるのか?
解らない。問いかけに答えてくれる者もいない。如何に私は肉体的なもの、物質的なものに頼ってきたのだろう。
考えるのに必要な時間が生前の世界と同一だとするならば、私がこの世界に来てから1ヶ月が経過した事になる。
この1ヶ月で様々な事が解った。まずこの世界にいるのは、私一人では無い。この世界で、何か行うのに必要なのはたった一つ。『実現したい事を心に強く念じる事』だ。見たいと思えば、『見たい』と念じる。そうすれば、見たいイメージが精神の中に展開されるのだ。
私は最初に、この世界を見たいと何度も念じた。すると、漆黒の闇の中から無数の小さな光が浮かび上がり、その一つ一つの光は、『魂』だという事も解った。
光に対して『貴方は此処で何をしているのですか』と念じると、『解りません。私は死んでしまって、此処にいるようです』と返答が返って来たからだ。
無数の光は、私と同じくシェ・ファに殺された者。
次に解ったのは、この世界は『記憶の層』と呼ばれている事だ。多くの魂が、同一の認識を持っていた。
「此処は『記憶の層』で、暫く此処にいれば『次の世界』へと誘われる」
らしい。何故そのような認識を持っているのか、私には解らない。だが彼等はそれを信じて疑っておらず、はっきりと断言するので、他者に納得させるだけの迫力を持っている。
この世界を一言で形容すると『停滞』だ。唯、己と向き合うのみで、変化は無い。
だが束の間の時を経て、その認識が誤っていた事を知る。
『停滞』では無く、『溶解』が最も適切だったのだ。
私がいつも通り周りを見渡していると、突如数千から数万の魂が消えた。今の所、消えた魂は戻ってきていない。彼等は、『次の世界へ誘われる』事を認識していた者達だった。
私は、この先一体どうなるんだ?
何時の間にか眠っているような精神状態に陥り、記憶が次々と蘇ってきた。死ぬ前に崩れた記憶までもはっきりと。
天界での暮らし、リバレスとの出会い。堕天、フィーネと愛し合い……彼女は死んでしまった。
涙など出はしないのに、心がギュッっと抓まれて、泣いているように感じてしまう。
フィーネ。死んだ彼女もこの世界に来たのだ。私との約束を信じて。
孤独感も無く、安堵を感じるこの世界。だが、停滞した時と突然消える魂。さぞ不安だっただろう。今の私と同じように。
「シェルフィア、リルフィ、寂しいよ」
声も出ないが、私の精神はそう呟いていた。二人は今頃どうしているだろう?
私の為に、泣いてくれているんだろうな……。肉体は主である魂を失っても、そのまま其処に残る。私の亡骸に縋る二人を想像するだけで、胸が締め付けられるような思いがする。
だがそれよりも……それよりも二人は心を抉られて傷付いているのだ!
「本当にごめん」
届けたくても決して届かない。声にならない言葉。流したくとも流せない涙。
その時だった。どんな魂とも異なる、異質な声が私の意識に響いたのは。