第三節 智慮
突如、硝子が砕けるような乾いた音がフロア中に鳴り響いた。その音でルナは飛び起きる。傍(かたわ)らで眠っていたリバレスも寝惚(ねぼ)け眼(まなこ)を擦った。
「リバレス、早く指輪に変化しろ!」
言われるがままに、リバレスは指輪に変化する。ルナは舌打ちした。結界が魔によって破られたのだ。百体以上の魔が突進してくる。
「ゆっくり休む事など出来ないようだな」
時計を見る。眠ってから二時間弱、疲れが余り取れていない。だが突き進むしか無い!
「道を空けろ! 邪魔する者は斬る」
私は自分の体を結界で覆いながら、剣を抜いた。走りながら立ち塞がる魔を斬っていく! 下りの階段に差し掛かっても、魔の軍勢は途絶えない。剣を振る腕が痺(しび)れ、足が鉛のように重い……。疲労の余り意識が混濁する。それでも、フィーネの笑顔を心の支えにして、無心に走った。
走り始めて三十時間が経過した。今日は一月一日、新年だ。6B522M164T800(神と獄王が誕生して六十五億二千二百十六万四千八百年の経過を意味する)年の幕開けである。
現在私達は塔の千五百階に居る。下り始めて八十時間でようやく塔の半分だ。フロアの中央には球体の彫像があり、半分が黒い。私はプレートに目を通した。
「此処は塔の中央。これより下は獄王の領域。神の光届かぬ闇の世界」
塔を下る毎に体力と精神力を奪われるのは、疲労の所為だけでは無いのだ。私もリバレスも、獄王の領域に近付くにつれて力が減少している。
神は光からエネルギーを生産する。光が無ければそれが出来ない。私達天界の生物は、光から遠ざかる程に力を失うという事か。逆に獄王は、獄王は「海」からエネルギーを生産する。現在は、獄界の中枢を囲む「闇の海」から力を得ているらしい。闇の海には、生きる者の邪悪な念や、二十億年前の大戦の犠牲者の魂が溶け込んでいるとも聞く。
彫像に腰掛け、息を整える。その時だった。「ゴォォ……!」という轟音と共に、黒い炎が私達を包む! 体が焦げ付く程熱い。また、強力な魔のお出ましか。
「何者だ!」
そう叫びながら、私は神術で風を起こし炎を押し返す。
「お前がルナリートか?」
炎の向こうに佇む魔。何と女の魔だった。華奢な体で、肌の色を除けば身体は天使と変わらない。それよりも、彼女は涙を流している。何故だ?
「ああ、私がルナリートだ。此処を通してくれるなら、お前に危害は加えない」
「私の名はソフィ。お前は……、イレイザーを、私の『最愛の魔』を殺したんだ!」
そんな事が……? 否、魔も高等知能を持つ。愛情が、天使や人間と同様でも可笑しくは無い。私は無意識に、剣を抜こうとした手を引っ込めていた。
「死ねぇぇ!」
気付いた時には目の前に火球があった。赤黒く、濃縮された憎悪の炎。
「くっ!」
リバレスが私に「保護」を使ってくれていたが、胸に直撃した炎で私は二十m程後ろの壁に激突した。背中と後頭部を打ち、胸には火傷。致命傷では無いが立ち上がれない!
「お前は、自分の恋人の魂を救う為に塔を下り始めた。そうでしょう? お前にそんな心があるなら、何故イレイザーを殺した?」
ソフィが、私の頭を踏み付ける。こいつはフィーネの事を知っている! そして、イレイザーに「最愛の女」が居る事を知らなかったと言っても、意味は無いだろう。言い訳しても死者は戻って来ない。それに、最後まで戦士だった者を貶(けな)すつもりも無い。
「私にも話をさせてくれ」
私はソフィの足を掴んで引っ張る。彼女が転倒したと同時に私は立ち上がった。
「そうだ、私はフィーネを救う為に来た。イレイザーは、命を落とすその時まで私を殺すつもりで戦った。互いに譲れぬものがあり、それを守る為の戦いだったんだ」
「黙れ! お前の話など聞きたく無い。お前は、イレイザーの仇なんだ!」
ソフィが、再び紅蓮(ぐれん)の炎を作り出す。このフロアの天井にも届きそうな炎。
「どちらが死んでも可笑しくない状況で、命を懸けて戦った。此処で私がお前に謝れば、私は『誤って』イレイザーを殺した事になる。だから私は、迷わず自分の道を進む」
ルナの背中に光の翼が現れる。彼は掌から暴風を起こし、炎を完全に掻き消した。力を使い果たしたソフィが、その場に力無く座り込む。
「殺せ! 私も、イレイザーの下へ送ってくれぇ!」
「私はお前を殺さない。お前が、これからも変わらずイレイザーを愛し続けるならば、彼の魂を探してやってくれ。お前には死ねる程の覚悟があるから出来る筈だ」
私は彼女に背を向け、階段へと向かう。すると指輪のリバレスが私の指を締め付けた。
「(放って置いていいのー?)」
「(ああ。愛する者を奪われた痛みはよく解る。だがその痛みは、復讐でも、自殺でも癒されない。命を賭して、愛する者を取り戻すしか無いんだ。例え、生まれ変わって記憶が消えようとも、心までは消えない事を信じて)」
魔は忌(い)むべき存在だと思っていたが、決してそうでは無い。思想が違うだけで心の構造は変わらないのだ。詰まる所、天使も人間も魔も、「自分の信じるもの」の為に戦う事しか出来ない。だから私は振り返らず進む。
「……お前の愛する人間の魂は、獄王様が保管している。早く、此処から消えて!」
ソフィが私の背中に叫ぶ。私は振り返らずに礼を言い、階段を下り始める。フロアに谺する泣哭(きゅうこく)の声。彼女の幸せを願う。
フィーネの居場所は解った。だがその場所は最悪だ。私は、獄王から彼女の魂を取り戻さなければならないのだ。それでも私は歩みを止めはしない。
私は翼を広げて、階段とフロアの上部を滑空する。走って下りるより断然速い。それに、不必要に魔と戦う必要も無い。この状態はエファロードの第三段階……。第四段階の「私」を制御出来れば、自分の正体が解る……、か。