第四節 驕恣(きょうし)
飛行を始めて僅か四十時間で、私達は最下層に辿り着いた。光の翼が現れてから私の疲労は殆ど無い。リバレスは指輪の形状のまま、必要時間は眠っている。
最下層には、真っ黒な球体の彫像とプレートがあるだけで、扉や階段などは無い。取り敢えずプレートを読んで見るか。
「此処は獄界へ通じる間。闇を模したこの像に向かって、『獄王の名』を口にせよ」
何という事だ、此処まで来て……。神の名すら知らぬ私が、獄王の名を知る筈も無い。
「無駄だ。ルナリートよ」
背後から声がした! さっきまでは何の気配も無かったと言うのに。私は振り向きざまに、剣を抜く。
「ワシの名はファング。獄王様の側近じゃ。ワシを殺したくば、殺すがいい。殺せば、貴様は獄界へ行く事は出来ぬがな」
狼を巨大化したような躯(からだ)。黒色の体毛に金色の目。目には狡猾で老獪(ろうかい)、残虐な光が宿っている。獄王の側近、力も半端では無いだろう。
「私はフィーネの魂を救いに来た! 頼む、此処を通してくれ」
他に方法が無い以上、私はこいつに頼むしか無い。まず断られるだろうが……
「いいじゃろう」
え? 私は耳を疑った。だが、ファングの気が変わらない内に獄界へ行きたい。
「済まない!」
「構わんよ。じゃが、獄王様の命令で一つ条件がある」
只では通さない、当たり前か。何が望みだ、私の命か? 意を決して私は口を開く。
「言ってくれ」
ファングの目が怪しい光を帯びる。その光に一番近い表現は、「優越感」。
「『天使の指輪』じゃ。貴様の強力なエネルギーを吸収した指輪を、獄王様に献上する事が条件。それを呑めば、獄界に案内しようではないか」
束の間の逡巡……。私が天使の資格を失う事は、フィーネの魂に比べればどうでも良い事だ。だが指輪が獄王に渡ると、天界の秘密が獄界に知られてしまう。神術の術式、天使の力を引き出す方法も漏洩(ろうえい)するだろう。そうなれば獄界全体の力が増幅し、天界までもが侵略されるかも知れない……
「(ルナー、ダメよ!)」
リバレスが指をきつく締め付ける。その気持ちは解る。私一人の決断が、天界を危機に追い遣るのだから。しかし私は、フィーネの声、温もり、滑らかな髪、死に際の最後の微笑みを思い出し、決断した。
「……いいだろう」
私は、右手中指で千八百二十七年間光り続けた指輪を外す。自分勝手なのは承知だが、私にとってはフィーネがどんなものより大切なのだ。彼女を助けられたら、償いとして一生、天界と人間界の為に戦わなければならないが、それでも構わない。
「(ルナ……)」
リバレスが私の名を呼び、何も言わなくなる。お前の気持ちは解るが……、済まない。私は指輪をファングに投げる。奴はそれを、鋭い牙で器用に捕らえた。
「確かに受け取った。そんなにもあの女の魂が大事か……。貴様のエゴが、天使や人間を破滅させる事になると言うのに。まぁ良い、約束通り獄界の『入り口』に案内しよう。其処からは、自分の力で獄王様に辿り着くのじゃな!」
そう言う事か。どうせ入り口から獄王の所まで、鉄壁の守りなのだろう? だが必ず突破してやる。指輪を外した瞬間から、体の奥が疼(うず)く。誰にも負ける気がしない。
「さっさと案内しろ」
「ハッハッハ……! 愚かな『エファロード』よ、獄界で後悔するが良い! 獄王様の名、それは『フェアロット・ジ・エファサタン!』」
ファングが獄王の名を叫ぶと、フロアに黒い霧が立ち込め始めた。体が溶けて行くような感覚……。そして私は意識を失った。フィーネ、もう少しだよ。