第十四節 零雨

 今日もこの街には雨が降っている。静かで冷たい雨。そう遠くない未来、雨は雪へと変わるだろう。ルナが堕天して今日で五日目になる。変化に満ちた生活、だがその生活に彼は慣れてきた。フィーネとリバレスはまだ眠っている。彼はハルメスに貰った本を開いた。

 正午頃、ルナが本を読み終えた後にフィーネが目覚める。

「おはようございます!」

「おはよう。随分長い間眠っていたな」

 髪が乱れた彼女は眠そうに目を擦(こす)っている。

「あっ、見ないで下さいよ! 顔を洗って来ますね」

 私の視線に気付き、彼女は慌てて部屋を出て行った。

「ところで……、お前は何故まだ寝てるんだ?」

 起きる気配の無いリバレスの頭を指で小突く。

「う、うーん。もう朝なのー?」

「もう昼だ。たまには、私より早起きしてみたらどうだ?」

「わたしがこの二百二十四年間で、ルナより早く起きた事が何回あるのよー?」

 リバレスが、膨れっ面をしながら私に訴える。開き直るなよ。

「そうだな……。まだ九回しか無い。大体、二十五年に一回しか起きない奇跡だよ」

「其処まで詳細に言わなくても……。でも、わたしが遅く起きるのは仕方無いのよー!」

「確かに。今まで色んな事を試したけど、無理だったからな」

 そんな他愛の無い話をしていると、フィーネが濡れた髪を拭きながら帰って来た。

「お待たせしました。この街は水が豊富なので、水浴びもしてたんですよ」

 彼女は身震いしながら微笑む。体から湯気が出ている事から察して、温水を浴びたのだろうが、今は寒そうだ。

「朝食は後で良いから、暖炉で温まった方がいいぞ」

 そう言って、暖炉に薪(たきぎ)をくべた。「パチパチ」と、火が勢いよく燃える。

「ありがとうございます! ルナさんとリバレスさんも、水浴びどうですか?」

 水浴びか……。天界の住人は、普段から薄い「保護」で体が覆われているから、余り体が汚れない。体を洗うのは二ヶ月に一回で十分だが、何事も経験か。

「解った。行くよ」

「わたしもー!」

 浴室は、男女別だった。天界のように、個室になっていないらしい。リバレスにどうするか聞こうとすると、彼女は「翼の無い女天使」に変化した。余程入りたいらしい。

「わたしは、ゆっくり入浴するから、朝食を食べたら迎えに来てねー」

 彼女はそう言うと、女用の浴室に走り去った。

 温かい湯船に浸かると心地良い。天界には冷水のシャワーのみだ。必要は無いが、頻繁に水浴びするのも悪くないな。私は、湯船を出ると「焦熱」の神術で体を乾かした。部屋に戻ると、扉の向こうから鼻歌が聞こえた。随分ご機嫌だな。

「お帰りなさい! サッパリしましたか?」

 大輪の花のような笑顔で、フィーネが私を迎える。思わず目を背けた。

「ああ」

「朝食の準備、出来てますよ!」

 色取り取りの料理が食卓に並んでいる。やはり彼女は料理が上手い。

「ところで、フィーネ。祝宴の事は覚えてるか? 特に、宿に帰って来てから」

 椅子に座って、料理を食べながら訊いてみた。

「ええっと……。祝宴の最初の方しか覚えて無いです。ごめんなさい」

「謝る必要は無いさ。唯、君が私の事を『初めは無口で怖いと思っていた』事が解っただけだから」

 目を丸くして、頬を朱に染めるフィーネ。やはり昨日の言葉は本心だな。

「まさか私、そんな事言ったんですか! ごめんなさい。でも、今はそんな風に思ってませんよ! 今は、優しくて頼り甲斐がある人だと……、ああっ。何言ってるの、私!」

「ははははっ……」

 素直過ぎる。大慌てだな。あんまりからかうのは止めよう。

「ルナさんっ! 笑ってる所を初めて見ましたよ!」

 そうかも知れない。私は余り笑わないから。だが、最近よく笑うようになったと思う。

「私だって、笑う時ぐらいあるさ!」

「もっと笑って下さいね」

 ニコニコしながら、私の顔を見詰めて来る。食べ辛い。その時、部屋の扉が開いた。

「たっだいまー!」

「えっ……。誰ですか?」

 リバレスが、女天使の姿で帰って来た! 待ってるって言ったのはお前だろ。

「こら、リバレス!」

「あ、ごめんなさい!」

 直ぐに指輪に変化するリバレス。フィーネに説明するのが厄介だな。

「羨ましいな。私も、色んなものに変身出来たらいいのに……」

 全く驚いていない。彼女にとっては、私が笑った事の方が重大事件らしい。

 三人は食事を摂った後、食糧を買出しに行った。途中、会う人全てに礼を言われた。食糧も無料で貰い、船に乗る。次の目的地は「ルトネックの村」だ。レニーから南に百km、水産業が盛んな村らしい。

 間も無く日が沈む。この世界ではS.U.Nの事を「太陽」と言う。魔の事も「魔物」と呼んでいる。天界とは微妙に違うらしい。

「もう直ぐルトネックに着くけど、あそこは魔物が多いから気を付けてな」

 小型船の船長が舵を握りながら呟いた。船員は船長一人、乗客は私達だけだ。

「そんなに多いのか?」

「ああ。頻繁に船が襲われてる。それに、二週間前から連絡が取れていない……」

「大丈夫ですよ。ルナさんが助けてくれます!」

 フィーネの双眸が期待に染まっている。そんなに期待されても困る。

「(気安くそんな事言わないでくれるー?)」

「ごめんなさい!」

 突然頭を下げるフィーネに、船長が不思議そうな顔をする。

「何にせよ、期待してるぜ! ん……、様子が可笑しいな」

 船長が指差す先。其処には茜色の空……、否それだけじゃ無い。

「村が燃えてる!」

 フィーネの声が大空に吸い込まれて行く。砂漠に落とした一雫のように。

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