§プロローグ§

 

「お父さん、お母さん……。ううん、ルナ、シェルフィア」

 

 青白い月光が白亜の城を照らす。その屋上で、春の終わりと夏の始まりを告げる僅かな熱気を帯びた夜風の中に微かな声が響いた。彼女はその名前を一体何度口にした事だろう? 最愛の人達の名前、そして生きている限りは二度と逢う事が出来ない人の名前。彼女を支えているのは、最愛の人達と過ごした煌く星々のような思い出だった。

「ルナはわたしに二度も命を与えてくれた。わたしは今でもはっきりと思い出すわ。ルナの肩の温もりと、抱き締められる喜びを」

 彼女が一人ぼっちになって、十八年の歳月が流れていた。長い命を生きるエファロードの血を引く彼女にとってその程度の年月は瞬く間でしか無いが、二度の生涯の中でこれほど月日の経過が遅いと感じた事は無かった。思い出で自分を支え、月を見て両親と会話する。普段はそれで寂しさを感じずに済むのだが今日は違った。

「ルナ、シェルフィア、わたしは今日で28歳になったのよ」

 彼女は「変化」の神術を使って背中に羽を作り、空に舞い上がった。彼女には二つの記憶が存在する。一つは天翼獣として生まれ、ルナに保護された後パートナーとして生きたリバレスとしての記憶。もう一つはルナとシェルフィアの間に子供として生まれて育てられたリルフィとしての記憶だ。子供として生まれた時、天翼獣としての記憶の大部分を失っていたが、目の前に居る両親がずっと昔から大切な人だったという事は分かっていた。しかし、年月を経るにつれて記憶は完全となり、今ではルナに拾われてから天界と共に消えるまでの一切を思い出せる。

 シェルフィアが自分を産んでくれた年齢は既に追い越し、後数年で居なくなった年齢すらも追い抜いてしまう。そう思った時、リルフィはもっと強くならなければと決意した。かつて、天翼獣として生き、ルナとシェルフィアの為に自らの命を捧げようと決意した時のように。「お父さん、お母さん」と話し掛けると、どうしても甘えたくなってしまう。だからこそ彼女は、二人を出来るだけ名前で呼ぶようにしようと考えたのだ。

「それにしても、二人ともこの世界を救う為だったとはいえ自分勝手よ。わたしに少しは相談してくれても良かったじゃない。ルナが魂界を作って、シェルフィアもそこに行く事は分かってた。それでも、事前に話をして欲しかった。ルナは私に自分の幸せを見つけろって言ってたけど、わたしの幸せはリバレスだった時からルナの傍に居る事だったのよ。リルフィになってからは、ルナもシェルフィアも本当の家族になれた。それ以外の、そしてそれ以上の幸せなんてそう簡単には見付かる訳ないじゃない」

 彼女はこの十八年間に想いを馳せる。

 ルナ達がこの星を飛び立ってから一年後には、この星に新たな生命が育まれるようになった。たった一年で魂の世界を再生してくれた、ロードやサタン、そして亡くなった犠牲者達のお陰だと世界は大いに感謝した。その後は、生き残った者達は必死に世界を再建していき、十年が瞬く間に過ぎ去った。それからの八年で世界に新しい二つの秩序が生まれる。

 一つは、リルフィが治めるフィグリル皇国を中心とする、元天使や人間を主体とした「天の月」と呼ばれる連合体である。この連合体には元天使や人間が暮らす全ての街や村が含まれる。

 そしてもう一つは、かつての獄王フィアレスの息子であるフォルティスが母キュアと共に元魔の為に建国したヴァリエンテ帝国である。この帝国は広大で、殆ど全ての元魔が暮らしている。

 天の月とヴァリエンテ帝国の間には、当初は険悪な雰囲気が漂っていたが、統治者への絶大な信頼と世界の発展への想いは同じなので大きな衝突には至っていない。

 漸く、かつてこの世界に生きた者達の願いが叶い、全ての者に平和が訪れたのだ。

「おやすみ、誰よりも大好きなルナとシェルフィア」

 リルフィは月を見上げてそう呟き、城の屋上へと戻った。

 

 リルフィが寝室に戻り、眠りに就くと世界の「風」が変わった。風は熱を失い、月が厚い雲に覆い隠されていく。世界は刹那、光を失った。

 やがて雲が晴れていく。すると其処にはいつもの青白い月では無く、真紅に染まった月があった。そして、その真紅の月からあらゆる不吉を凝縮したかのような一滴の赤い雫が垂れる。雫は途中で複数に分かれ、この星に降り注いだ。

 

 ――最後の物語は、誰にも気付かれる事無く、唯静かに始まった。

 

 

目次 第一章 第一節