3五月一日。この日は雲一つ無い快晴で、初夏を感じさせるような気温だった。緋月はこの一ヶ月で、都会の喧騒に辟易していたが、今日の空の高さは実家と同じだと思った。 いつも無感情に歩いているのに、感情が戻って来た気分だ。やはり、青く突き抜けるような空は俺の心を穏やかにしてくれる。空と畑が俺の故郷だからかもな。 都会に出て来て初めてだった。緋月が暗澹たる表情を忘れていたのは。 一時間目は人物デッサンの講義だった。大学に入ってから、緋月はデッサンで力を発揮出来ていなかった。唯、目の前のものを書き写していただけだ。だがこの日は違った。故郷で毎日描いていたように、見たものを自分なりに解釈して感情の赴くままに描いた。 いつの間にか、俺の周りに人が集まっている。どうしたんだろう? 今、調子がいいから集中したいんだが。 「君、迎居君だったね。君の両親は画家かね?」 初老の教師が声を掛けて来た。教師なら無視する訳にはいかない。 「いいえ」 「誰かに描き方を教わった事は?」 「ありません。唯、小さい頃から本で勉強したりして毎日描いていました」 どよめきが教室を埋め尽くす。緋月は頭を掻いた。自分のデッサンが評価されている事を理解したからだ。 「長年教師をやっているが、新入生がこんなデッサンを描くのを見たのは初めてだ。生々しく、対象そのものの魂が宿っている」 緋月は無言で項垂れる。大したものは描いていない。俺はこの程度じゃ満足出来ないと、心中で呟きながら。 講義が終わって、緋月は感嘆の声を上げる生徒達に囲まれた。 「無口で近寄り難い奴と思ってたけど、実はお前凄かったんだな!」 「ねぇ迎居君、どうやったらこれが描けるようになるのか教えて!」 自分の作品が褒められた事よりも、普通に話し掛けて貰えたのが嬉しかった。やはり俺は、自分から人を遠ざけていただけなんだ。 昼食、休み時間、講義時間中も緋月に話し掛けて来る人間は絶えなかった。緋月は微笑みさえ浮かべたが、それは心の底からの笑いには程遠い。 放課後、緋月はいつものように一人で校門へ向かう。今日話し掛けて来た学生達は、殆どがサークル活動だ。それに、まだ緋月と一緒に帰る程仲の良い者は居ない。 緋月が校門を出ると、誰かに後ろから肩を叩かれた。細い指の感触が伝わる。女だ。 「迎居君」 歳の割に大人びた美しい顔に、飴色のふわっとカールが掛かったロングヘアー。スレンダーで、モデルのような体に高級そうな服を纏っている。 「澄川さん?」 澄川 舞苺。同じ学科の同級生だ。専攻も同じ。学生の中でかなり目立っているので名前は知っていた。否、名前だけじゃ無い。彼女の噂も耳にした事がある。 「ええ。今から一緒に夕食を食べに行かない? 迎居君が描く絵について話を聞きたいの」 上目遣いに俺を見詰めている。行かない方が懸命だろう。俺が彼女について聞いた噂は碌なものじゃ無い。 「あ、俺は用事があるんだ」 「一時間でいいから、お願い! あのデッサンを見たら、どうしても迎居君と話がしたくなって。私、デッサンは誰にも負けない自信があったのに、生まれて初めて完敗したと思った。迷惑じゃ無ければ、話を聞かせて」 必死な形相。絵に対する情熱は本物だ。この表情を見ている限り、あの噂は嘘のような気がする。別に、話をするぐらいは構わないか。 「解った。一時間ならいいよ」 「ありがとう!」 彼女の大人びた顔が綻び、急に幼く見えた。だが緋月は動じない。彼女が、男を誑かす悪女だと聞いていた所為もあったが、緋月の目には雪那しか映らないからだった。 | |
目次 | 第二章-4 |