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 緋月は澄み渡る空の下、絵を抱えて雪那の家を訪れた。今日は八月五日、雪那が生きていれば三十六歳の誕生日である。

 絵を居間に置き、緋月は覆いを取り去る。描かれた絵を見た雪那の両親は、絵の前で泣き崩れた。絵の中に最愛の娘が居て、今にも話し掛けて来そうだったからだ。

 

 二人が落ち着くまで緋月は待つ事にした。二人共、絵を見ては涙を流し、涙が止まれば絵を見る繰り返しだったからだ。

 雪那の母が自分に視線を送って来たので、緋月は口を開く。

「おばさん、今まで僕は雪那の墓に行ってあげる事が出来ませんでした。ですが、今日僕はこの絵を持って墓参りに行こうと思います」

 雪那の母が嗚咽を漏らしながら頷き、二階に上ってから何か小さなものを持って戻って来た。古ぼけてはいるが、綺麗に磨かれた鍵だった。

 墓の鍵だろうか? 遺骨を取り出して、絵を見せるのかも知れない。

「ありがとう、ひー君、ううん『緋月君』。貴方は、世界中で有名になっても雪那との約束を忘れずに守ってくれた。雪那のお墓に行く前に、貴方に行って欲しい場所があるの」

「はい、何処へ行けばいいですか?」

「向日葵畑に、真っ白な石があるでしょう? 其処へ行って欲しいの、この鍵を持って」

 そうか、俺と雪那はあの石を「墓」だと思っていたが、他の人には唯の石に見えるんだな。それより、何故鍵を持って俺が其処に行くのだろう? あの石に鍵穴など無い。

 怪訝な表情を浮かべる緋月に鍵を渡し、雪那の母は穏やかな笑みを浮かべる。やはり雪那は母に似たのだと、緋月は心の中で呟いた。

 

「石の下に『箱』があるわ。鍵は、その箱を開ける為のものよ」

 

 緋月は半信半疑のまま、スコップを持って畑にやってきた。闇雲に周りを掘るのでは無く、緋月は石の東側を掘る事にした。向日葵が向いている方角なので直ぐに解る。

 五十cm程掘った所で、スコップは何か固いものに当たった。緋月が穴を覗き込むと、確かに箱があった。彼は手が震え、喉が渇いた。その箱が、自分に何か重大なメッセージを与える事を予感したからだ。

 箱は、プラスチックの密封容器の中に、木箱と言う二重構造だった。木箱には南京錠が付いており、さっき渡された鍵を差し込んで回すと、あっさり鍵が開いた。

 緋月は木箱をテーブルまで運び乗せる。真夏の光を浴びているにも関わらず、緋月は全身が凍るような感覚に襲われていた。

 この中にはきっと、俺に対する雪那の想いが詰まっている。

 

 そして緋月は、木箱を開けた。中には幾重にも巻かれたビニール袋があり、それを緋月は丁寧に剥がしていく。最後に現れたのは、完全密封された手紙と金平糖だった。密封している袋には、切り込みが入っており、緋月は其処から袋を破る。密封は恐らく、雪那の母がしたのだろうと彼は推測した。

 袋から取り出した、色褪せた手紙の封筒の表を見て、緋月は目元が潤む。

 

「大好きな緋月へ」

 

 そう書かれてあったからだ。懐かしい字、その字は正に高校時代の雪那の字だった。緋月は、意を決して封筒から便箋を取り出す。彼は、一文字たりとも無駄にせぬよう声に出して読み始めた。

 

「これを緋月が読んでいると言う事は、私との約束守ってくれたんだね。ううん、守ってくれるって解ってた」

 

 緋月は(はな)を啜り、続きを読む。

 

「緋月、先に死んじゃってごめんね」

 

 やっぱり死ぬって解ってたんだな。お見通しなんだよ……

 

「緋月はいつだって優しい。私が我儘を言っても、無理なお願いをしても。あれだけ絵が上手い緋月が、自分で満足の出来る腕前になってから、私の絵を描いてくれたんでしょ? 見たかったなぁ」

 

 そうだよ、やっと描けたんだ。この絵は必ず後世まで残るから、いつか絶対に見ろよ。

 

「でも、私の我儘はこれでお仕舞い。きっと緋月は、何年も何十年も頑張って、歳を取ってると思う。だからこの手紙を読み終えたら、緋月は……、自分の人生を生きて」

 

 もうその言葉は聞いたよ! 何で俺の事ばっかり優先するんだ……

 緋月は堪え切れなくなり、泣かないようにする事を諦めた。途端に顔が歪み、溢れる涙が手紙を濡らす。

 それでも彼は、途切れ途切れになりながらも手紙を読み上げる。

 

「緋月、悲しまないでね。私の絵を描いたのなら、きっともう悲しみは乗り越えてると思うけど、緋月は誰よりも私の事を想ってくれるから心配なの」

 

 雪那には負けるよ。俺がこうやって頑張れたのは、雪那のお陰なんだ……

 

「緋月、愛してるわ。ずっと、ずっと。

 また、永遠の中で会えるのを楽しみにしてる。

 さよならは怖いから……、またね」

 

 其処まで読んで、緋月は声を上げて泣いた。止まらなかった。涙も、感情の奔流も。

 畑中に、彼の声が響き渡る。かつて、雪那が自分を捜して歩き回っていた時のように。

 

 太陽が天の頂を通り、沈み始める。

 微風が緋月の頬を撫で、向日葵をざわめかせた。

 

 最後の便箋の裏に、追伸が書かれているのに気付く。

 

「私のお墓は無いよ。お母さんに、向日葵畑に散骨して貰うように頼んであるから。そうすれば、きっと私は早く永遠に還って、また緋月に会う事が出来るから。あ、もう一つ緋月にお願いがあるの。緋月が買ってくれたペアリング、二つとも真っ白なお墓の下に埋めて欲しいな」

 

 さっき、我儘は終わりって言っただろ? 全く……

 

 緋月は、封筒の中にもう一枚紙切れが入っているのに気付いた。それは明らかに便箋とは違うもので、どう見てもノートの切れ端だった。だが、それにも雪那が何かを書いてある。便箋の文体とは違い、走り書きだった。

 

「電車に乗る前にね、金平糖を見付けたの。懐かしいでしょ? 緋月の分も残しておくから、良かったら食べて」

 

 何年経ったと思ってるんだ。十七年半だぞ。

 緋月は涙を拭って笑った。そして、手紙と一緒に入っていた金平糖を一気に頬張る。混じり気の無い甘さが口一杯に広がった。

 

 雪那からの言葉をもう一度読み返した後、緋月は立ち上がり走った。

 無数の向日葵の中へ、子供の頃のように。

 

 そして緋月は、ドサッと倒れ込み空を仰ぐ。

 世界を照らす太陽が、向日葵の花に見えた。

目次 第三章-1