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 緋月が大臣賞を受賞してから、三年近くの歳月が流れた。その間彼は、仕事で貯めた資金を元に世界を旅しながら絵を描いた。緋月の絵は、海外での評価も高まり、彼が描く絵は著名な美術館に買い取られるようになった。同時に、世界規模の賞も数多く受賞した。

 

 そして緋月は、三十五歳の誕生日に帰国した。

 約束の絵を描く為に。

 

 故郷に戻るのは、世界を放浪する前以来だから三年振りか。父さんも母さんも驚いてたな。それも当然か、空港に着いてから帰国した事を知らせたのだから。

 斜陽に染まる広大な大地を、緋月を乗せたタクシーが走る。

 実家の隣にある、向日葵畑の前で緋月はタクシーを降りた。彼は、空で輝く真っ白な月を見上げた。涼やかな風が、緋月を包み通り抜けた後で、彼は視線を畑に落とす。

 此処は、何年経っても変わらないな。今年も、畑一面に向日葵が植えられている。雪那のお母さんは、いつまでも植え続けるつもりなのだろう。娘が愛した花を……

「緋月!」

 畑を見詰める緋月の元に、大声で呼び掛けながら、彼の両親が並んで歩いて来る。二人共、家の前で待っていたのだ。

「ただ今」

「お帰り、誕生日おめでとう。どうしたの、急に帰って来て?」

 母が上擦った声で緋月に尋ねる。突然でも、息子の帰省が嬉しいのだ。

「父さん、母さん。今日から、暫く家に住まわせて欲しいんだ」

「此処はお前の家だ。好きなだけ居るといい」

 既に定年退職を迎え、白髪交じりだがまだまだ元気そうな父が、そう言ってくれた。

「ありがとう。俺は暫く家に住んで、雪那と向日葵畑の絵を描こうと思ってる。明日には、雪那のお母さんに許可を貰いに行くつもりだよ」

「緋月、あなたは大学に行ってから、この家に長く滞在する事は無かったわ。だから、お母さんは嬉しい。今日はご馳走を作るからね」

「……心配掛けてごめん」

 そうだな、此処に戻っても精々数日間だった。姉ちゃんの結婚式の時も、柊が死んだ時も、期限を決めずに世界を放浪する前でさえも。

 

 翌朝、緋月は雪那の家を訪れた。呼び鈴を押すと、そっとドアが開き中から誰かが此方を覗いている。緋月がドアに向かって、一歩近付くと唐突にドアが開いた。

「ひー君なの?」

 現れたのは紛れも無く雪那の母だが、緋月は彼女を見て言葉を失った。昔のように、元気一杯で生き生きとした女性では無い。深い悲しみが、彼女から力を奪い老憊(ろうはい)させたのだ。

「はい、お久し振りです」

 姉ちゃんの結婚式以来だから、もう十年振りぐらいになる。

「貴方の活躍は知ってるわ。お仕事忙しい筈なのに、どうしたの?」

「雪那との、約束の絵を描く為に帰って来たんです」

 緋月の言葉を聞いた雪那の母は、目を丸くして暫く黙り込む。緋月は、一瞬にして張り詰めたこの空気を打開しようと、持って来た土産を差し出した。

 だが彼女はそれを受け取らず、目を潤ませて緋月の手を握る。

 

「ひー君、ありがとう。雪那、喜ぶわ」

 

 彼女は途切れ途切れに其処まで言うと、堪え切れずに涙を流した。

 そうか……、雪那は俺に絵を描いて貰う事を、お母さんに話していたんだな。泣いていると言う事は、俺が絵を描く条件についても知っているのだろう。

 

 俺は、ようやく自分で納得の出来る絵を描けるようになったのだ。

 

 だからこそ、俺は一番描きたかった雪那の絵を描ける。

 此処まで来るのに、三十年近く掛かった。だが今の俺なら言える。俺が知っている雪那の全てを、そして俺の想いを絵で表現する事が出来ると。

 これから俺が描く絵は、俺の人生で最初で最後の究極の作品になるだろう。その絵が描けたなら、俺はもういつ死んでも構わないとさえ思っている。

 

 雪那を描いた絵は未来まで受け継がれ、きっと彼女の元に届く筈だから。

目次 第二章-19