3黒い屋根に煉瓦の柱、大きな硝子窓がある洋風な家。其処に雪那は住んでいる。アンティーク調の茶褐色の重厚なドアを雪那が引いた。 「あら、ひー君、いらっしゃい」 玄関で雪那の母が緋月に声を掛ける。雪那とよく似ており、黒髪の美人だ。緋月は、彼女に一礼した後に口を開いた。 「おばさん、そろそろその呼び名は勘弁して下さいよ」 「それは無理ねぇ。もう十三年もそうやって呼んで来たのよ」 参ったなぁ。中学になっても、高校になっても子供扱いだ。もしかしたら、俺が大人になってもそう呼ばれ続けるかも知れない。仕方無いか、此処に引っ越して来てからずっとお世話になってるし。 「お邪魔します」 「そう、素直なのが一番よ。ところで、今日は家で食べてく?」 「はい、是非!」 雪那のお母さんの料理は美味い。使う食材は同じでも、彼女が料理すれば家の料理よりも数倍美味しいのだ。小さい頃は魔法だと信じていたぐらいに。それに、家の両親は帰りが遅く夕飯はいつも自分で作っている。姉ちゃんが大学に行くまでは、姉ちゃんに作って貰っていたのだが、今は自分で料理するしか無い。だから、こうやって外で美味しいご飯にありつける事は、至上の喜びと言っても過言では無い。 緋月は、雪那と共に彼女の部屋に入った。彼女の部屋は二階で、窓からは緋月の家と向日葵畑がよく見える。床はフローリングでその上には、ソファ、ベッド、テーブル、椅子、本棚、クローゼットが品良く配置されている。壁、窓を覆うレースのカーテンも含め、家具や調度品は全て白い。これは雪那の趣味である。 二人は長方形のテーブルを挟んで座り、勉強道具をテーブルに並べる。緋月は国語と英語の参考書、雪那は楽典の本を開いた。二人共、夕食までの時間は無言で自分の課題に取り組む。シャープペンシルを走らせる音、本のページをめくる音が無機質に響く。 一時間程経ち、雪那の母に呼ばれた時には二人とも空腹で、階段を駆け下りた。 「ああ、やっぱりおばさんの料理は世界一だな」 雪那の部屋に戻るなり、緋月が感嘆の吐息を吐く。彼はロールキャベツを急いで頬張り、ご飯を二度お代わりした。 「大袈裟ねぇ」 雪那が微笑む。両頬に出来た笑窪を緋月が触る。雪那はその指をゆっくりと引き離した。 「さて緋月、勉強の成果を見せて貰うわね」 緋月の隣の椅子に雪那が腰掛け、彼がさっきまで格闘していた参考書に目を通し始めた。 「雪那の方は勉強、どうなんだよ?」 ニヤッと不敵な笑みを浮かべる雪那。訊くんじゃなかった。 「それを私に訊く? 模試で常にA判定の私に」 そうだ、雪那は勉強が出来る。俺とは比べ物にならないぐらいに。俺達が通っている高校は、そこそこレベルの高い進学校なのに、彼女は殆どの教科で五段階評価の五だ。テストでも、常に学年で十番以内。雪那が居なかったら、俺は間違い無く今の高校には居なかっただろう。美大入学なんて寝言でも言えない。 「いつも悪いな」 緋月は雪那の薄い肩を揉んだ。子供をあやす親のような、慈愛に満ちた顔で。 「ん、熱でもあるの? 来年は一緒に都会に出るんでしょ。緋月が試験に落ちたら困るじゃない。それだけの事よ」 せっかく珍しく感謝の意を表してみたのに、流された。まあいいか、雪那らしい。 「はいはい」 「『はい』は一回!」 「了解」 「もうっ!」 怒ったような声だが、顔は笑っている。俺は、雪那のチェックが済むまでの間、彼女が見ていた楽典を開いた。……全く意味が解らない。 十分後、雪那は顔を上げ、神妙な面持ちで緋月の顔を見詰めた。彼は思わず背筋を正す。 「良く出来ました」 雪那が大笑いしながら、緋月の頭を撫でる。緋月は拍子抜けして、椅子の後ろに反り返った。そして彼も笑う。暫く二人で笑った後、緋月は立ち上がった。 「それじゃあ、そろそろ帰るよ。もう九時だしな」 彼の言葉で雪那は一瞬俯いたが、直ぐに彼女も立ち上がった。 「うん、また明日ね」 「ああ、いい夢を見ろよ」 束の間の沈黙。雪那の瞳の光が揺れる。雪那がゆっくり瞳を閉じると、緋月は彼女をそっと抱き締めキスをした。雪那も緋月の背中を抱き締める。彼女からは決して手を緩める事は無い。 緋月が手を緩め、指先で背中を優しく叩くとようやく雪那は緋月を離した。 「心配だから、帰ったらメールしてね」 「解ってる」 家は隣だから心配無いと言っても、雪那は聞かない。俺が帰る時は、いつも窓からずっと見てるのに、それでも聞かない。困ったものだが、これでも昔よりは控え目になった方だ。雪那の悲しむ顔だけは見たくないから、帰ったらちゃんとメールを送ろう。 |
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目次 | 第一章-4 |