第三節 幻夢フィグリル城の厨房では、一人の少女が料理の下拵えに追われていた。若干十九歳にして料理長を務める、「シェルフィア」である。 肩の下まで伸びる、金色で絹よりも滑らかな髪。後頭部に付けられた、水晶で出来た小さな花の髪飾りも目を惹く。華奢な腕にも関わらず、動きは力強く無駄が無い。 何より特徴的なのは、この世の闇を超越した純粋さと強さを秘めた、茶色で大きな瞳だ。其処には、「宇宙の真理」さえも刻まれているかのようである。 彼女はふと、「何か」違和感を覚え、厨房の壁を凝視した。壁が動いている。 「あなたは、誰!」 壁の向こう側から、赤髪の男性と小さな妖精が入って来た。魔物でも、リウォルの兵でも無い。目を見る限り悪い人じゃ無さそうだけど、怪しいわ。 「私は敵じゃ無い! 私の名はルナリート、ハルメスさんの弟だ」 彼の目は真剣だ。嘘を言っているようには見えない。でも安易に信じる訳にもいかない。 「皇帝の弟様ですか。確かに、目は皇帝と似ていますね。しかし、皇帝の弟ともあろう方が、どうしてこんな場所に居るのです?」 「兄さんは皇帝なのか!」 弟なのに、兄が皇帝なのを知らない筈が無いわ。 「やっぱりあなたは、侵入者!」 この厨房には他に誰も居ない。早く城の兵に伝えなくては。私は駆け出す。 「待ってくれ!」 左肩を掴まれた。凄い力! こんな力は人間じゃ無い。怖い、涙が出て来た。 「放して下さい!」 侵入者は困惑した顔で、私を放す。私が駆け出そうとした、その時だった。 「動くな!」 壁の向こうから五体の魔物! まさか、この侵入者が手引きしたの? 「魔物を連れて来るなんて……」 私は声を振り絞りながらも、足が竦んでその場から動けなくなった。 「俺達は上級魔。お前ら人間がどう足掻いても、足元にさえ及ばん。俺達は、ハルメスを殺しに来たのだ!」 「ハルメスは、人間界を侵略するのに一番目障りだぁ!」 黒い翼から不快な音を出しながら、魔物が叫んでいる。皇帝が危ない! 早くこの場から動かないと。赤髪の侵入者が剣を抜く。一体、何をする気なの。 「お前達は、私の事を知らないのか?」 侵入者の髪が銀色に変わった。目も蒼から赤へ。厨房に突如、旋風が巻き起こる。 「その容姿、力。貴様は、獄界を荒らし回ったルナリート・ジ・エファロード!」 「これは好都合だ! ルナリートを殺せば、『あの方』より多大なる褒美が出るぞ」 魔物がどよめいている。獄界、あの方、解らない事だらけだ。でも、どうやら侵入者は魔物に命を狙われているみたい。と言う事は、侵入者は人間の敵では無いのかも知れない。 「君は早く逃げろ! 此処に居るだけで、殺されるぞ」 この人は私を心配している。やっぱり味方だ。 「あなたは、どうするんですか!」 「私はこいつら如きに負けはしない。だから早く、私の帰還を兄さんに伝えてくれ。ルナリートが帰って来たと!」 彼に私は背中を押された。それで私の足はどうにか動き、私は厨房を出る。でもこの人が心配で、厨房の出口からこっそりと見守る事にした。 「兄さんと私を殺すと言う以上、覚悟は出来ているだろうな?」 「覚悟するのは貴様等だ、死ね!」 ルナリートさんと、魔物の声が聴こえた直後には全員の姿が消えた。轟音と共に厨房の中が壊れていく所を見ると、目にも止まらぬ速度で戦っているらしい。 料理の下拵えは、諦めるしか無さそうだ。 「神光!」 ルナリートさんの声の後、厨房は真っ白な光に覆われた。暴風で私は後ろに倒れる。 「ギャァァ……!」 耳障りな声、魔物は死んだの? 私が再び厨房を覗くと、今度は黒い煙が厨房の中に充満している。その中で怪しく光る双眸! 魔物が生きている。そう思った直後、双眸の主は私に飛び掛り、私の首を掴んだ。殺される…… 「クククッ、この女を殺されたくなければ其処を動くな!」 「外道が……」 私は人質……。彼の言う通り逃げなかったから。この人は強いのに私が迷惑をかけてる。 「剣を放して其処を動くな!」 魔物が私の首に鋭い爪を突き付ける。初めからルナリートさんを信じていれば…… 「言う通りにするから、その子を放せ」 彼は剣を床に放り投げた。「カシャン」と言う金属音が耳に響く。 「ルナリートさん、私の事など構わず逃げて下さい。貴方はこの世界に必要な方です!」 私は魔物の爪を握る。直ぐに、掌から血が滴り落ちた。早く逃げて! 「人間の少女は皆、こんな風なのか?」 「ハルメスさんも、粋な計らいをするわねー」 ルナリートさんと妖精が喋っている。何の話をしているのかは解らないけれど。 「喋るな! この娘を殺すぞ」 魔物の声で二人は口を閉じ、魔物を睨み付けた。研ぎ澄まされた刃物のような鋭い視線。 「それで良い。今から俺の炎で焼き尽くしてやるから、動くなよ!」 魔物が大口を開き、其処から赤黒い炎が滲み出す。熱い! お願いだから、私の為に死なないで! 嫌なの、誰かが「私の為に死ぬ」のは! 「死ねぇぇ!」 「嫌ぁぁ……!」 厨房に居る二人に向けて炎が放射された! でも…… 「死角を増やしたのが命取りだ」 二人はいつの間にか魔物の後ろに居た。そして、ルナリートさんが掌から光を放つ! 「フィアレス様ぁぁ……!」 魔物は塵と化した。何だろう、この感覚は。私は、「以前にも」赤い髪の人が魔物と戦う所を見た事があるような気がする。ううん、それだけじゃ無い、私はルナリートさんを知っている! 何度も夢の中に出てきた人だ。夢の中では、はっきりと顔が解らなかったけれど、今はこの人だと確信出来る。 「おい、大丈夫か!」 「え? は、はいっ! あなたが無事で良かったです……」 上の空だった。そう言えば、私は手を怪我していたんだ。 「手を見せてくれ」 恐る恐る手を出す。痛い……。こんな手じゃ、もうピアノは弾けないかも知れない。でもそんな事はどうでも良い。この人が助かったのだから。 「何て無茶な事を……。これに懲りたら、二度と魔には近付くな!」 彼が私の手を握る。温かく「懐かしい手」。懐かしい? さっきから私は可笑しい。どうしたんだろう。あれ、手の傷が塞がっていく。何て素晴らしい力なのだろう! 「あ……、ありがとうございます! 申し遅れましたが、私はシェルフィアです。この城で料理長を努めています。さっきは、疑って本当に申し訳ありませんでした。貴方が皇帝の弟様である事、信じます!」 私がそう言うと、ルナリートさんは微笑んだ。胸が高鳴る。その後、皇帝の居場所を伝えると、彼は「光り輝く翼」を開いて飛び立った。皇帝は吹き抜けの一番上の部屋に居るからだ。 彼が飛び立った後も、私はその場を動けなかった。手の温かみを忘れたくなかったから。
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