Prologue

 

 天空と地平の狭間を焦がす真紅の落陽。大地はその光を受けて血に染まっているが、間も無く漆黒で覆われるだろう。悠遠の彼方より吹く風が疎らな草木を揺らし、熱砂を巻き上げる。

 小高い砂岩が、一日の終わりの光を受け静かに佇んでいる。闇に身を委ね、再び来る光を待つかのように。だが、いつもと変わらぬ自然の営みの中に、ごく小さな異分子が紛れ込んでいた。この荒漠たる砂漠から見れば砂粒一つと大差の無い存在である。

 それは一人の男だった。

 長身で細身、艶やかな漆黒の髪を携えた若い男だ。僅かにあどけなさが残る精悍な顔にある双眸は、芯に強い意志を湛えているにも関わらず絶望の深淵で揺らいでいる。

 長い間砂漠の上で倒れ意識を失っていた彼は、先刻ようやく目を覚ました。薄目を開けながら気怠そうに身を捩ると、焔のような空の光が視界を焦がし大きく目を見開いた。

「何だ……、この血に染まったような空は」

 この世のものとは思えない程、赤く染まった空と大地。誰もが、世界の終焉がこんな光景ならそれも悪くないとさえ思える程に憂愁を誘う荘厳な美しさだった。彼は言葉を失い、眩暈を堪えながらも考えを巡らせる。

「俺は此処で何をしている?」

 彼はそう自問した。再び失いそうになる意識を辛うじて繋ぎ止めながら、彼はゆっくりと立ち上がる。

 

 ――俺は、死ぬ為に此処に来た。

 

 生きていくという、果てしない重荷に耐えられなくなったからだ。

 死ねば全ての苦しみが終わる、永遠の安らぎが待っていると思っていた。生きる事は苦しみの連続で意味など無く、誰にとっても人生の結末は死だ。人生の中にある束の間の幸せなど、生きる苦しみから目を逸らさせる気休めに過ぎない。

 だからこそ、俺が少しばかり早く自分の命を終わらせたとしても世界には何の影響も無いだろう。世界は、俺が死んでも何も変わらず続いていくのだ。生きる上での喜びも希望も、所詮は生命を存続させる為に本能に刷り込まれただけのものだ。

 俺は欺かれたりはしない。無理矢理にでも生きさせようとする本能などに。

 ……だが、今俺の体を灼いているこの圧倒的な「渇き」は何だ?

 全身の細胞全てが蠢き、たった一つのものを求めて叫びを上げている。頭痛が酷く体もまともに動かないのに、渇きは俺を無理矢理突き動かそうとしている。このまま此処に留まれば俺は本当に死ぬだろう。この激烈な渇きによって与えられた力が消えた後に。それが俺の望みなのだろう? そうすれば確実に苦しみが終わるのだ。

 

 俺は死ぬ為に此処に来た筈だ。

 

 だがそれが俺の本当の望みなのか? 俺は心の底から自らの命を終わらせたいのか? 苦しみを終わらせるだけの為に俺は死ぬのか?

 そして、俺はその為に生きてきたのか?

 違う。

 今ならはっきり分かる。俺は生きる為に、死のうとしたのだ。

 一筋の光明すら射さない真っ暗で冷たい闇の底で、どれだけ捜しても見付からない希望を求めて這いずり回る毎日から逃げ出したかった。そこでは何も見えず、手を伸ばしても誰も手を取ってはくれなかった。絶望が全身を覆い、何の温もりも無く誰の声も聞こえなかった。だからこそ俺は死の中に希望を求めたのだ。俺は、苦しみの中をのた打ち回る事しか出来ない俺を殺したかったのだ。

 だが今……

 

「俺はもう一度、風音(かざね)の声を聴きたい!」

 

 彼は身震いをし、鮮血と漆黒が交じり合う地平を睨む。その両の目に宿るのは、最早絶望では無く燃え盛るような渇望だった。そして、よろめきながらも歩き出す。熱を失い眠りに就こうとしている広大な砂漠に足跡を刻みながら。

目次 第一章-1