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 地平の果てから生まれた暁光は空に昇るにつれて輝きを増していく。それに伴って一秒毎に気温が上昇し、冷たい眠りについていた砂漠は再び目を覚ます。紡樹は空と大地、そして空気までもが加熱していく中で出来るだけ距離を稼ごうと足を速めた。だが、ある一定の気温になると紡樹は汗が止まらなくなった。空気が乾燥しているので顔や露出している腕の汗は直ぐに乾くが、衣服の内側では明らかに多量の汗が滴っている。不快感を我慢して歩を進めるが、やがて紡樹の足取りは目に見えて重くなっていった。

 気温の高さと砂漠の熱気で汗が止まらないのだ。紡樹は何度も呻き、ペットボトルの水を飲んだ。彼は水を一.五リットル鞄に入れていたがもう三分の一に減っている。

「まだ朝の十時なのに、何だこの暑さは?」

 彼は天を睨みながらそう呟いた。彼が昨日までこれ程の暑さを感じなかったのは、殆どの時間を日陰で過ごしていた事が大きいが、短時間ながらも日向の温度や乾燥は経験している。それでもこの温度変化を想定出来なかったのは、単に彼が砂漠を甘く見過ぎていたからである。

 市街地は水場や建物がある分砂漠の只中よりも過ごし易いが、この日は昨日までよりも気温が高く風も弱い。紡樹は、偶然過ごし易い日にこの地にやって来たに過ぎないのだ。今日のこの気候こそが普段の砂漠の気候と言える。

「……帽子ぐらいは持ってくれば良かったな」

 はは、俺は何を甘えている? 今から死のうと言う人間が暑さや汗を気にしている場合か。進む距離の長短に関わらず、歩けなくなった場所が俺の死に場なんだ。

 紡樹は残っている水の半分を一気に飲み干し、残りはコップ一杯分程になった。その直後紡樹の体は更に大量の発汗に見舞われたが、彼はTシャツを脱いで歩き始める。この時点で彼は軽い頭痛に苛まれていたが一過性のものだろうと決め付け、歩みを止めなかった。

 

 正午を過ぎて気温は四十度を越え、陽射しを遮るものが何も無い不毛の地を紡樹は歩いている。砂漠には長年の光で灼けた石が疎らに転がり、色褪せた草木が慰みのように点在する。彼は蓄積した疲労と睡眠不足、そして渇きによって重々しい足取りで歩くのがやっとだった。思考能力は急激に低下し、先刻から水の事しか考えられなくなっている。残っている水を飲めば確実に死に近付くのに、それをする事に彼の心は躊躇している。だが彼の体は理性や感情では無く切実に水を欲していた。灼砂と草に足を取られ、低木で躓く。それを幾度か繰り返し紡樹は遂に最後の水を飲み干した。

「これで水も最後だ。歩けるだけ、歩こう」

 彼の声は掠れ、頭は万力で徐々に締め上げられるような激しい痛みに襲われている。進行方向を直視するには光が強過ぎて薄目を開ける事しか出来ない。それでも何とか足を前に出す事は出来たが、それから三十分もしない内に彼は立ち止まった。

 喉が渇いた。頭が……、割れそうだ。

 紡樹は頭を下げて両手を膝に乗せ息を整えようとするが、疲労も頭痛も軽減しない。渇きは増すばかりで胸を灼くような焦燥感が込み上げる。

 

 水……、水が飲みたい!

 

 頭を掻き毟り、バックパックを何度もひっくり返したが水はもう一滴も残っていない。そして此処は見渡す限り砂漠で人が通る見込みも無い。彼はこの状況に陥る事を望んでいた筈だが、体の渇きが発する尋常では無い欲求が彼に警告として苦しみを与え、それによって彼は当初の望みなど忘れ去っていた。今の紡樹は唯水のみを欲する「動物」であり、如何なる思考もその前では無力だった。希望も絶望もあらゆる欲求を凌駕する「渇望」の前では霞み消失する。

 彼は朦朧とする意識の中で、周囲を見回し少しでも水が存在しそうな場所を探す。だが辺りには砂と石、僅かな草木しか無く水を得る事が容易で無いのは明らかだった。だが紡樹は本能的に視界の中で最も高い木を目指して歩き始めた。草木が生長する場所には必ず水があり、それらは陽射しからも身を守ってくれる事を彼は直感していたのだ。

 足取りは重く絶えずよろめきながらも、彼は時間を掛けて見えていた木の麓まで辿り着いた。その木の高さは三m程で幹から細い多数の枝が垂れ下がり、枝の末端は松の葉のように針状に分岐している。木の麓には紡樹の背丈より少し低いぐらいの褐色の草が密集しており、紡樹はその草の中に倒れこんだ。

 この場所に辿り着くまでに何処にも水は存在せず、彼は最早正常な思考を失って草を数本引き千切って口に放り込んだが、水気は無く唇や舌が痺れただけだった。そして日陰にある砂を指で掘り始める。暫くして砂は僅かに湿り気を帯び始めたが水は一向に沸き出ては来ない。紡樹は湿った砂を口に運ぼうとして、一瞬我に返る。その一瞬で彼は如何に自分の肉体が追い詰められているかを思い知り、死へのプロセスが齎す苦痛を理解した。だが渇望は衰弱した精神など一顧だにせず、唯生き伸びる為に体を支配している。その自分の奥底に秘められていた、迷いの無い靭さに彼は驚愕したがそれも長くは続かなかった。

「汗が……、引いて来た」

 彼は誰にも聞き取れ無いような小さな声でそう呟き頭を垂れる。彼の意識は通り抜ける風に掻き消される灯火のように唐突に消えた。

目次 第三章-7