3紡樹は明け方まで眠る事は出来なかったが、そのお陰で計画はほぼ纏まった。彼は二、三時間程度の浅い眠りに就いた後、必要な物の買出しに出掛ける。彼が購入したのは、食料品と水、地図とコンパスだ。 彼はホテルの部屋に戻ると地図を開き、現在地に印を付けた後目的地を決めた。その目的地は宿泊地の北にある空港を更に北上した場所だった。その場所には道路も通っておらず観光名所も無い為、人が来る事は滅多に無い筈だと判断したからだ。此処から空港までの距離は六km程で車を使えば早いが、飛行機に乗る訳でも無いのに、周りに何も無い空港に行くのは怪しまれる恐れがあるので車は使えない。また空港を徒歩で迂回する為には、空港の南を走る道路を車通りの少ない時間帯に渡る必要があるので、その数時間前にはホテルを出発しなければならない。この地では人々は日の出前から活発に活動を始める。南東に聳え立つ、聖地とされる大岩で日の出を迎える観光客が多い為だ。紡樹はそれらを計算した上で目的地と出発時刻を決めた。 全てが決まった。これで俺の何もかもが終わる。延々と続く苦しみに苛まれる事も、人を傷付ける事も無くなる。無意味の中に意味を求め、絶望の中に希望を捜す必要も無い。 後は実行に移すだけだ。 安堵とも不安とも取れない混沌とした感情が紡樹の心を満たし揺さぶる。だが、どんな感情も死を以ってすれば拭い去る事が出来る。如何なる苦しみも苦悩も、痛みも悲しみも等しく無に帰すのだ。そう考えると、紡樹はまるで大きな悩みも無く生きていられた頃のように、自分の心が軽くなるのを感じた。 夕刻、計画を立て終えて空腹を感じた彼はホテルの近くにあるレストランに赴き食事をした。久々に食べ物の味をしっかりと感じ、満足感の中ホテルに戻った彼は何気なくベッドに転がる。すると抗い難い睡魔に襲われ彼は為す術も無く眠りに就いた。計画を遂行する為には深夜に出発しなければならないが、タイムリミットまでまだ日がある以上、今晩である必要は無いと自分に言い聞かせながら。 紡樹が目覚めたのは翌日の昼下がりで、眠り過ぎた所為か彼は頭が痺れるような感覚に襲われていた。視界が揺らぎ足元も覚束無い。彼は何とかトイレまで辿り着くと、昨日食べたものを全て吐いた。胃液しか出なくなっても、彼の吐き気はなかなかおさまらない。 ――俺はやはり駄目だ。昨日は多少元気になれたと思ったのに。改善した気がしても、必ず改善分以上に悪化する。冷静に考えれば分かる事だ。俺の心がもし改善する見込みがあるのならば、何処かで思い留まり死ぬ為に国を出たりはしなかった筈だからだ。一時的な高揚感や紛い物の多幸感に縋るのは無意味だ。その後に待っているのは何もかも真っ黒に塗り潰す絶望だけなのだから。絶望はより深い絶望に塗り潰されていく。 暫くしてから彼はトイレから抜け出して生温い水で顔を洗い、緩慢な動作で着替えてからホテルの外に出た。眠っている間に俄か雨でも降ったのか日陰の砂が湿り気を帯びているが、天頂からの光を受けている場所は既に昨日と同じように乾いて見える。 彼は天を仰ぐ。すると光の鋭さに目を射られ、瞬きを繰り返した後薄目を開けた。突発的な激しい頭痛がして彼はよろめいたが辛うじて踏み止まる。その後彼は、まともな食事をして気分を落ち着かせようと昨日と同じレストランへ足を運んだ。 レストランの前には長方形の小さな池があり、風に揺れる水面が光を砕いている。紡樹は店内では無く、パラソルが光を遮る池の傍のテーブルを選んだ。彼は店員に渡されたメニューを暫く眺めていたが、昨日と違ってどれも魅力的には思えなかった。仕方無く昨日と同じメニューを選ぶ。呆然と池を眺めると、水面は一秒たりとも同じ表情を見せず木の葉がその上を揺ら揺らと舞っている。 何故人は思い悩むのか? 人が進化していく中でそれは必要な事だったのかも知れない。だが、どうして自ら死にたいと望む程に悩まなければならないのか。思考は生きる為のものなのに。生きる為に身に付けた能力で何故死にたくなるのか。絶望から抜け出し、光ある未来に歩んでいけるのが生きる為の能力では無いのか? そして、俺は何故風音に手を掛けようとした? 彼女が眩しかったからか。俺が絶望に陥っているにも関わらず幸せそうだったからか。分からない。俺には何も分からない! 紡樹の自問は注文した料理を運んで来た女性店員の声で掻き消される。彼は礼を言う為に顔を上げた。だが、その瞬間彼は硬直して指一本でさえも動かす事は儘ならなくなった。何故そうなったのかを彼が理解する前に彼の脳裏に聞き覚えのある「声」が響く。 今なら目の前の女を殺せる。 その声は重く圧し掛かり有無を言わせない迫力がある。それは風音と過ごした最後の夜に響いた声と同じだった。紡樹の目は大きく開き何かを叫ぼうとするが声にはならない。 ふざけるな! 「俺」は一体何を考えているんだ? 目の前に居る女性は風音と顔立ちは少し似ているが、全くの別人だ。それなのに、何故「殺す」などという考えが浮かぶ! 躊躇するな。 何もかも壊してしまえば良い。どの道お前は死ぬのだ。何を殺しても、壊してもそれ以上お前を絶望と苦しみに追い遣るものは無い。 女性店員は、目を見開いて微動だにせず冷や汗を流す紡樹を心配そうに見詰めた後、言葉を掛けながら覗き込むように顔を紡樹に近付ける。 紡樹の指先が動き、次に腕が上がる。その制御出来ない動きが最終的に何を意味しているのかを彼は思い出したが、抗う事は叶わない。だが、 「ガチャン」 硝子が砕け散る音が唐突に響き渡り、紡樹の動きは止まった。彼の腕がテーブルに置かれたグラスに触れて地面に落ちたのだ。彼は弾かれたように立ち上がり言葉にならない叫びを上げる。店員と客が訝しげに紡樹に視線を送っているのを感じ、彼は料理に手をつける事無く代金を支払って逃げるようにその場を立ち去った。もつれる足でホテルまで駆け戻り、部屋の鍵を閉めると紡樹はベッドに倒れ顔を枕に埋める。涙が止め処無く溢れ、同時に声が漏れ出す。 「かざねぇぇ……! やっぱり俺はもう駄目だぁぁ」 俺は誰も殺したくは無いし、傷付けたくも無い! でもこのままだと、俺はいずれまた誰かの命を奪おうとするだろう。俺には誰かを殺める権利など無いのに! もう、俺は「俺」をコントロール出来ない。ならば少しでも自由に動ける内に、 俺は俺を殺す。準備は既に出来ている。 今晩、俺は死に向けて歩き出そう。誰に破壊衝動の矛先が向くか分からない以上、俺にはもう一刻の猶予も無いのだ。誰にも会わず、誰にも告げずに俺は出発する。 紡樹は淡々と荷物の整理を始めた。その表情には一片の躊躇さえ浮かんでいない。死への旅に必要な荷物はバックパックに纏め、それ以外のものはスーツケースに放り込んだ。彼はパスポートをスーツケース、免許証の入った財布をバックパックに入れたが、それは自身の死後もし誰かに見付かった際に身分を確認して貰い易くする為の配慮に過ぎない。 彼は床に就く前にパンを齧り、オレンジを頬張る。最後の晩餐にしては味気が無いが、彼にとってのこの食事は明日長距離を歩く為のエネルギー源でしか無かった。そして彼は食後、煙草に火を点けそれをゆっくりと味わった。部屋に紫煙が満ちていく。まるで彼の魂が端から燃えて、それが煙となって漂っているかのように。 出発は午前零時丁度で、現在時刻は午後九時半。紡樹はそれまでの間、電気を消して目を閉じ静かに待つ事にした。自らの息遣い、砂漠を吹き渡る風の音に耳を澄ませながら。 窓の外では、空に浮かぶ星が光の砂を滔々と零し続けている。 | |
目次 | 第三章-4 |