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 木枯らしが吹き荒び、粉雪がそれに翻弄されている。この地では十一月には雪が積もり始める。この強い風は、短い夏の後に飾りのように付いて来た刹那の秋の終わりを告げていた。空には白刃のような細い月が昇り、雲の掛かっていない場所では星が煌いている。一つ一つの家屋や店舗が離れているこの街には、空を照らし星を隠す程の光量は無い。また、冷え込む夜に出歩く者は少なく時折通る車と風の音だけが夜の沈黙を打ち破る。

 一台の車が木枯らしにエンジン音を混じらせ、闇をヘッドライトで切り裂きながら走って来る。そしてある施設の前で止まった。広い敷地が鉄柵で囲われ、敷地の半分程を使って二階建ての居住用と思われる建築物が建てられている。建築物の窓の幾つかには明かりが灯っているが、建物の外に人影は無い。車の運転席と助手席に居る男女はそれを確認し、車を降りた。そして後部座席に居る女児の手を引き、三人は施設の門の前に佇む。

 男女は二十代半ばに見え、二人とも容貌は整っているが酷く疲れているように見える。その娘と思われる幼子も端整な顔立ちで将来美人になるのは間違い無いだろう。

 木枯らしの空を切る音が鳴り響いた。

「風が強いわね」

 実年齢から遠く離れた蒼白で荒れた顔を隠すように、厚く化粧をした女が呟いた。

「かじぇ?」

 まだはっきりとは発音出来ない女児が女を見上げながら、言葉の一部をリフレインする。彼女の瞳にはまだ何物にも染まっていない無垢な光が宿っており、今から自分がどうなるのかを知る由も無い。

「そうよ、私達の人生は今日みたいにずっと風当たりが強かった。どれだけ頑張っても正面から風が吹いて来て、一歩進んだと思っても直ぐに引き戻される」

 女が自嘲的な笑みを浮かべる。彼女の目は何かを思い詰め何処にも焦点が合っていない。女児は母と思しき女の言葉の意味が分からず首を傾げ、冷たい風に震え始めた。男は持っていたタオルケットを女児の肩に掛け彼女の頭を撫でる。

「僕達にはもう、他に方法が無い」

 女と同様に男も虚ろな目をしている。だが二人共女児を見る時だけは、僅かに愛情の片鱗を感じさせる温かみが浮かんだ。男は小さなビニール袋を鞄から取り出し、女児に手渡す。それは彼女の好きな金平糖で、それを受け取った彼女は嬉しさの余り声を上げた。男と女はその瞬間周りを二度見回し、声を誰かが聞いていないかを確認する。数秒後、二人は誰も声に気付かなかったと判断したが、この場所に長居する訳にはいかなかった。

 

「良い子だから、此処で待っているんだよ」

「良い子にしていたら、直ぐに迎えに来るからね」

 

 男と女はそう言って女児の頭を撫でた。女児は金平糖を頬張りながら、嬉しそうに頷く。彼女は聞き分けが良く、金平糖を袋ごと貰えた嬉しさも相俟って男と女が車に乗っても何も疑う事は無かった。

 車が走り去り見えなくなる前に、男と女は窓から顔を出して手を振った。女児はそれに応えて跳ねながら両手で手を振った。

 

 三十分、女児は無言のままじっと其処で待ち続けた。金平糖は無くなり、風は身を切るような冷たさに変わっていった。

 一時間後、彼女は地面に座り空を眺めていた。月と星が雲に覆われ、代わりにヒラヒラと舞う羽のような雪が彼女の小さな顔に降り注いだ。

 二時間後、彼女はようやく泣き出した。空腹と寒さの所為もあったが、二人が何処か遠くに行って帰って来ないという実感が胸の中一杯に広がったからだ。彼女は声の限りに泣いた。その声は静まり返った夜に響き渡り、空をも割りそうだった。やがて、施設の中から二人の人間が彼女の元にやって来て彼女を建物の中へと連れて行った。その施設は「児童養護施設」で彼女は施設の前に遺棄されたのだ。

 彼女は、保護された時には軽度の低体温症に罹っており栄養状態も良くなかった。彼女の衣服やタオルケットは決して上等なものでは無く至る所に破れがあり、衣服のポケットには僅かな金だけが入っていた。彼女は自分の身分を示すようなものを持たず、自分の名前すら知らなかった。彼女は体が温まって意識が安定するまでの間、何度もうわ言のように「風」と繰り返していた。

 

 数ヶ月が経過しても彼女を迎えに来る者は無く、彼女は正式に孤児として認定され命名される事となる。美しく利発そうで、木枯らしの吹く日に遺棄され、何度も「風」と繰り返した幼子。

 

 彼女は「風音」と名付けられた。

目次 第二章-6