3部屋の静寂を覆い隠していた暖房器具の規則正しい音が唐突に途切れ、密度の濃い無音が部屋を支配する。それは風音が布団に包まれて約一時間が経過した事を意味していた。彼女はベッドに入ってから今まで、襲い来る喪失の苦しみを和らげる為に眠ろうとしていたが上手くいかなかった。その苦しみは、まるで心の大部分を抉り取られたかのようで自分が生きているという意味さえ見失う程のものだったからだ。 風音は深く苦しげな溜息を吐き、再び過去へと思索の糸を伸ばす。 ――希望。 紡樹がそれについて話した時、私は直ぐには言葉を返せない程の衝撃を受けた。価値観の違いと言う言葉で簡単に片付けられるような事じゃ無く、それまでの生き方そのものが違うんだと気付かされた。その言葉を私は今もはっきりと覚えている。 「希望って、これから先が今以上に素晴らしいものになると思える期待だろ? ある程度の高みにまで上るとなかなか先が見えなくて、希望を見失うんだ」 紡樹の言った「希望」は、「夢」と似ている。夢を実現するには今よりも自分が成長しなければならないし、それを信じる前向きな心も要る。そして夢を叶えたなら、夢は夢で無くなり同じ夢は二度と見られない。 私の思う希望は、夢とは全く異なっている。 希望は絶望に対抗する為の唯一の手段で、もし心に希望の欠片も無ければ、絶望に絡め取られて何も見えなくなってしまう。希望は生きていく為に必要不可欠な灯火。心から灯火が消えれば、温もりが失われやがて壊死する。だからこそ無理にでも一つは希望を持たなくちゃいけない。 私は紡樹に出逢ってからは、生きてさえいれば紡樹と同じ時を一緒に過ごせる、それを希望にして毎日を生きて来たわ。 自分の存在に意味を見出せず、自分が生きている事に実感が沸かず、自分と世界への憎悪が体と心の隅々まで焦がしても。 紡樹は、死が齎す絶望を超える永遠の愛を小説で表現しようとした。それは素晴らしいテーマだったと思う。でも貴方は本当の絶望を知らなかった。抽象的な概念としての絶望では無く、心と体が切り刻まれるような痛みを伴う本当の絶望を。 ――絶望。 それは、自分の力ではどうにもならないものに阻まれて、身動き一つ出来ないものなの。貴方はそれを知らなかったから、絶望に脅える人々の心に響く作品を書けなかった。 貴方は今、生まれて初めて絶望の中に居る。概念じゃ無い、絶望と言う言葉が指し示す意味の中に。その中は光も見えず、誰の声も届かない。でも紡樹なら自分の力で光を蘇らせられるわ。貴方と言う存在の核には、物心付く前から絶望の中に居た私に届く程の強烈な光があるから。 風音の脳裏に、紡樹と出逢った頃の記憶が徐々に像を結ぶ。ピントが合わずにぼやけた過去の輪郭が鮮明になる。やがて彼の顔や声だけでは無く、周りの景色や風の手触りさえも彼女は呼び覚ました。それらが今でも色褪せていない事に安堵すると同時に、当然だとも思う。彼女にとって、風音として生きられるようになった生まれ変わりの日だからだ。 無音の部屋の窓に夜風がぶつかり、カタカタと乾いた音が響く。しかしその音は風音の耳には届いていない。彼女の意識は遊離し彼と出逢った日に遡っていた。 | |
目次 | 第二章-4 |