第二章 落日の凪

 

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 小雨が本降りの雨に変わり、どんよりとした無彩色の空が明度を落としていく。塞ぎ込んでいるような単色の世界を際立たせるように、霹靂が気紛れに轟く。空港の滑走路は何処までも鈍色で、雨滴が幾何学模様を描いている。

 ターミナルビルから漏れる光が輝きを増すのに反比例して、世界は黒く塗り潰されていく。闇に浮かんだ巨大な光の渦の中心に、風音は立っている。彼女は今正に自分から去ろうとする紡樹を、唯抱き締めていた。「熱」を彼に届け、苦しみを和らげる為に。

 

「忘れないで、紡樹。辛い時をじっと耐え忍べば必ず幸せが訪れるの」

 私の前に貴方が現れたように。

 紡樹は私を心の芯から受け入れ愛してくれた。それで私がどれだけ救われたか、幾ら言葉を重ねても紡樹にはきっと分からない。貴方に出逢うまでは、私は私として生きられなかったのよ。私は私の内面を隠して、親の期待に応え周りの人達には決して嫌われないようにしてきた。そうしなければ、私は直ぐにでも世界から疎外されると思っていたの。それが馬鹿げている事は理解しているけど、私の心は頑なに本当の自分を解放する事を拒んでいた。でも貴方は、最初から当たり前のように「私」を見てくれた。

 それがどれ程凄い事か分かる?

 紡樹、貴方の苦しみが私には理解出来る。でもね、その苦しみを私はどれだけ願っても代わってあげられないの。私が貴方にしてあげられる事は、生きているという実感を伝える事だけ。生きる事は苦しみの連続で何も見えない闇と同じよ。でも、生きているからこそ差し込む光を待つ事が出来る。闇の中で蹲っている間は光が射す事なんて信じられなくて、永遠の絶望に凍えているような気がする。それでも、光は必ず射すわ。

 唯、生きてさえいれば。

 風音は、自分の想いをより強く伝える為に紡樹を力一杯抱き締める。

 

「もう一つだけ。生きているから温かいのよ」

 

 紡樹は何も答えない。自分の想いが伝わらないもどかしさに、風音は叫びを上げそうになる。だが、言葉は今は何の意味も持たない事を彼女は知っている。

 

 ――私は信じてる。

 紡樹が必ず絶望の闇から必ず抜け出す事を。貴方は私の暗黒を消し去る光になってくれた人だから。持っている光が強ければ強い程、抱えている闇もまた深い事を私は知っている。でも、僅かな光でも残っていればやり直せるの。貴方は私に手を掛けようとしたけど、踏み止まれた。だから……

 

 風音が紡樹からぎこちなく離れる。彼女の意志は彼からそっと離れようとしていたが、彼女の感情は紡樹からの別離を激しく拒んでいたからだ。

 

 私は紡樹が以前よりも強い光を取り戻して帰って来るのをいつまでも待ってる。

 

 紡樹がセキュリティチェックを受け、視界から消えた。それと同時に胸を締め付けるような喪失感が風音を襲う。彼女は眩暈がしてその場に座り込み掛けたが精神力のみで持ち堪える。それに集中する事で彼女はいつの間にか自分の呼吸が浅くなっている事に気付き、意識的に呼吸を深くした。呼吸が安定して来ると彼女はバッグに入っている袋から、紡樹に渡したものと揃いのラピス・ラズリのペンダントを取り出した。

 蒼い星のようにも見えるこの石は、持ち主を守り精神を安定させると言われている。天然石の効能など風音は信じていなかったが、その石を見た時彼女は不思議と穏やかな気持ちになれた。そして彼女は迷う事無くペンダントを二つ購入した。それは、クリスマス前の街を歩く紡樹から旅立ちの連絡を受ける数時間前の事だった。

 

 紡樹が搭乗している航空機が漆黒の空へと昇っていく。轟音が遠ざかり明滅する光すらも見えなくなると、紡樹が静かな闇の世界に自分を置いて消えてしまったような気がした。風音はその直後、展望台から下りトイレの個室へと駆け込む。

 猛烈な吐き気と自己嫌悪で風音は震え始める。涙が止め処無く溢れ、漏れ出そうになる声を消す為に口を手で押さえる。それでも洟を啜る音だけは止められない。

 

 紡樹は私を救ってくれたのに、私は何も出来なかった! 紡樹の苦しみの一部でさえも拭い去る事が出来ない。私が貴方にしてあげられたのは温もりを伝える、たったそれだけ。どうして私は他に何も思いつかなかったの? 絶望は、私にとって空気と同じぐらい馴染み深い存在なのに。私は紡樹が居なければ生きていけない。紡樹は私の絶望を退ける唯一の希望だから。紡樹のいない世界なんて私にはもう考えられない。でも、紡樹にとっての光に私はなれなかった! どうして? 紡樹はもしかしたら死んでしまうかも知れないのに、何故私は紡樹を守れないの?

 私には世界でたった一人、貴方さえ居ればいい。心を覆っている厚い殻を通り抜けて、私の心に触れて温めてくれる貴方さえ居れば。それなのに私は貴方の心を救うどころか近づく事さえも出来なかった!

 

 意識が朦朧とする程の激しい不安定さが鎮まって来たのは、彼女がトイレに入って一時間以上が経過してからだった。既に涙は涸れ、声が漏れる事も無くなった。その代わりに彼女は過呼吸に陥らないよう意識的に呼吸の速度を落とし、胸を強く押さえていた。

 身動きすら出来ずに唯じっと苦しみをやり過ごす風音は、まるでこの世界の淵から零れ落ちてしまいそうな自分の存在を何とかして繋ぎ止めようとしているように見える。かつて幾度も味わって来た絶望が齎す変調と今回の症状は似通っていたが、心と体の制御が出来ず、しかも同時に強く揺さぶられるような深刻なものは紡樹と出逢ってからは一度も無かった。

 

 私の心がどうしようもないぐらい紡樹に依存していたのがはっきり分かった。でも私がこんなに弱気じゃいけない。今は私よりも紡樹の方が助けを必要としているのよ。

 今の私は貴方の無事を祈る事しか出来ない。けれど、貴方が帰ってきたら私は貴方の支えになるわ。私は紡樹がいつでも安心して帰って来られる場所になるの。

 

 風音という存在の輪郭が、先刻よりも鮮明になった。

 彼女は紡樹が寄り掛かれる人間になる為に、自分を縛る過去と対峙する事を決意した。

目次 第二章-2