§第一章 蔓延する狂気§

【第一節 限りなく透き通った空】

 

 リルフィが28歳になった日の深夜に真紅に染まった月は、何事も無かったように翌日からはいつものように青白い光を湛えていた。世界はいつものように平和で、争いや不穏の気配は微塵も感じられない。そして、真っ白に眩くジリジリと焼け付くような光に満ちた夏が過ぎ、涼しげな風と共に秋が訪れた。

 

「今日も空は澄み渡っている。何処までも、何処までも高い空。この空の果てにルナとシェルフィアは居る。言葉を交わす事は出来ないけど、遥か空の彼方からわたしを見守ってくれている」

リルフィはフィグリル城の屋上で空を見上げながら心の中で呟いた。何度繰り返したか分からない呟き。二人とは言葉も温もりも交わせないが、彼女は空を見上げると二人を近くに感じた。数年前に、リルフィは何処まで高く飛べるか試した事があったが、当然月へは行けず、途中で地上に引き返した事がある。どれだけ飛んでも月が近くならない事に彼女は涙したが、いつもと変わらない蒼い月光が彼女の心を癒してくれた。

「さて、今日は『定期会談』の日。そろそろ支度しないとね」

 彼女は自室に戻り、会談とは思えないような服へと着替える。かつて父であるルナリートが着ていた黒い戦闘服をベースに、フリルなどを加えてデザインを可愛らしく、カラーリングを赤や白に変えている。全身を鏡に写し、真紅の長い髪を整えたり化粧をしていると瞬く間に一時間が過ぎた。彼女はリルフィになってからはそれほど朝に弱くはなくなったが、最近ではリバレスの頃のように支度に時間が掛かるようになっている。

 腰にオリハルコンの剣を差して自室を出て王座の間に着くと、大剣を背中に装備した体格の良い精悍な顔をした青年が彼女を迎えた。

「皇帝、ご出発ですか?」

「そうね。それよりいつも言ってるけど、敬語をやめてよね。わたし達は幼馴染で長い付き合いなのに」

 リルフィは苦笑して幼馴染であるウィッシュにそう言った。ウィッシュはルナとシェルフィアの友人であるセルファスとジュディアの息子で、リルフィとは生まれた時からの幼馴染である。気さくに話が出来たのは十代までで、皇帝となって人間や元天使を束ねるリルフィに対しては敬語を使うようになった。彼は連合体である「天の月」の総司令官を務めながら、フィグリルとリルフィの警護にもあたっている。元天使や人間の中で力や神術で彼の右に出る者は居ない。

「それは出来ません。私がこの立場で此処にいる限り」

 リルフィは何も言わず肩を竦める。彼女は、ウィッシュも昔のように接したい気持ちを抑えている事を知っている。

「そろそろ行くわね」

「お気を付けて!」

 ウィッシュや他の兵士、侍女達に見守られながらリルフィは目を閉じて精神を集中した。そして自らを転送させるイメージを描く。瞬く間に彼女の周りの風景が変わっていく。

 

 目を開くと彼女は高度な文明が凝縮された廃墟の島、「聖域ロードガーデン」に居た。この島はかつての天界が地上に落ちた時の遺跡である。リルフィは月に一度、ある者と一対一で会談を開く。

 廃墟の一角にある向かい合わせの大理石の椅子に一人の青年が座っている。銀の髪に真紅の目をした細身の青年はリルフィの姿を認めると、少し溜息をついて言葉を発する。

「相変わらず遅いね」

「あなたがいつも早過ぎるのよ」

 わたしはいつも定時丁度に来ているのだから悪くない、とリルフィは思う。リルフィは青年の向かいに座り、彼女が治める国や地域の状況を書いた分厚いノートを革の鞄から取り出した。青年も同様に衣服の内ポケットから手帳を取り出す。

「フォルティス、毎度思うけどよくそんな小さな手帳に状況を書けるわね」

「そもそも、僕達にはノートなんて必要ない。覚えようと思えば忘れないのだから。それに伝える可能性がある事柄だけを要約して書いているから分厚いノートは必要ない」

 まだ18歳の癖に生意気だわ、とリルフィは言いそうになるのを我慢する。青年はフォルティス・ジ・エファサタン、エファロードであるリルフィと対になる者で、元魔の長である。エファロードは神、エファサタンは獄王と呼ばれ長い間争って来たが、リルフィとフォルティスの代になってからは二人とも争おうとはしない。二人の両親は共にこの世界の平和と未来の為に尽力してきたからだ。

「本当にあなたはフィアレスにそっくりだわ。顔も性格も」

「それは最大級の賛辞だね。それよりも本題に入ろう。まずこちらの状況は……」

 その後、二人は各々の状況についての情報共有をした。この会談を行うようになったのはフォルティスが15歳になってからなので三年前だが、今までどちらにも深刻な問題は起こっていないので、情報共有は直ぐに終わる。

「本日も世界は平和って事ね」

「そういう事。僕達の親が望んだ通りの世界だ」

 リルフィは微笑む。フォルティスもほんの少しだけ口角を上げる。そして、二人はそれぞれ椅子を立ち剣を抜いた。リルフィの剣はオリハルコン、フォルティスは自身の帝国で作られたダークオリハルコンの剣である。

「それじゃあ、いつも通り少し運動しましょうか?」

「望む所だ!」

 フォルティスは年不相応な落ち着いた表情を崩し、少年のような顔で不敵な笑みを浮かべる。リルフィとフォルティスは、鍛錬の為に会談の時に戦闘訓練も行う事にしている。二人は他に対等な力を持つ者が居ない為、全力で体を動かせるのはこの時のみである。

「この頃はあなたの力が増しているから、今日からは第三段階よ」

 リルフィはそう言うと、髪を銀色に変化させて瞳を真紅にし、背中に光の翼を発現させた。そうする事で普段の千倍もの力を引き出せる。

「ふんっ、そうやって余裕を見せられるのも今だけさ。直ぐに追い抜いてやる!」

 その言葉の直後、互いの剣が火花を散らし、神術と魔術が衝突する!

 聖域の一部が更に崩壊し、海の一部が干上がる。リルフィは戦いの余波が世界に及ばないように聖域周辺に結界を張っているが、次はもっと広範囲に更に強力な結界が必要だと考えながら戦っていた。たった一人でも、自分と同じような圧倒的な力を持つ者が居るという安堵を覚えながら。

 二人は一時間程全力で戦った後、各々の国へと帰還した。

 

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