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 大学が夏休みに入ると共に、緋月は実家に帰った。

 去年と何も変わらず、無数の向日葵が出迎えてくれた。此処には、柊を含めた自分の家族全員と、雪那の両親も居る。

 

 唯、雪那だけが居なかった。

 

 緋月は長年雪那と過ごして来たからこそ、彼女の最後の苦悩を理解出来た。だが、理解した事によって彼の心の傷口は更に深く抉られる。

 一つだけ緋月には解らなかった。雪那は自分の死を明確に予期しながら、何故死から逃れようとしなかったのか。それを「今」の彼が知る術は無い。

 向日葵にも川にも、柊にさえも緋月は雪那を連想した。二人で最後に会った街灯を眺め、自室のベッドに入った頃には、緋月の精神は破綻寸前だった。

 

 故郷の懐かしさも、家族の優しささえも、緋月には苦しみとなる。

 

 彼は数日で、家族の心配を他所(よそ)に逃げるように故郷から都会に戻った。下宿先に居る方が、彼の心は安定した。

 あの時から、舞苺は一切連絡をして来ない。舞苺も自分と同じように苦しんでいるのだろう、そう緋月は考えた。苦しめたのは自分だと、言葉にすると涙が出た。

 

 たった一人で過ごす夏休み、それは緋月が自分を追い詰めるのには十分過ぎる時間だった。彼は悩み抜いた結果、一つの結論を出す。

 それは大学を辞める事だった。

 自分が大学に通えば、また誰かを傷付ける。少なくとも、落ち込んでいる自分を見付けるだけで、舞苺は悲しむだろう。それに、大学生活を謳歌している学生の中に溶け込む事は絶対に出来ない。何より、大学のぬるま湯に浸かりながら、雪那の苦悩を忘れて、のんびりと絵を描く事に耐えられそうも無かった。

 緋月は、自分に厳しい試練を課す事でしか、雪那の想いには応えられないと思ったのだ。大学を辞めて、美術関係の会社に入り自分の力だけで生きていく。そう彼は決意する。

 

 案の定、家族から猛反発があった。時には、雪那の両親から電話が掛かってくる事もあった。だが緋月の意思は揺るがない。

 

「これは俺が選んだ道だ、後悔はしない。大学で四年間、安穏と過ごすより実社会に揉まれる方が、絵の技術は向上する」

 

 彼は何度もそれを繰り返し、八月の終わりには、緋月が元気に生きていけるなら、それでいいと両親に告げられる。その代わり仕送りは一切止められ、緋月は直ぐに職を探さねばならなくなった。

 何のコネクションも情報も無く、正社員での採用しか考えていない緋月は、職業安定所に向かう以外に妙案が浮かばなかった。住民票は四月から此方に移してあったので、求人に応募するのに問題は無い。だが……

 

 現実は甘くない。

 そう思い知らされるのに、大して時間は掛からなかった。

 

 高卒で実務未経験。それが彼の肩書きなのだ。美大に入学は出来たが、中退したのだから意味は無い。応募資格、書類選考で(ふるい)に掛けられ面接まで行けない。九月から半月間、毎日安定所に通い詰めたが、成果は無かった。

 

 これぐらい、些細な事だ。雪那は、自分の死と向き合いながら、最後まで俺の事を想ってくれていた。それに比べれば……

 

 緋月は雪那の想いを糧に、苦悩を熱意に変えて精力的に就職活動を続けた。

 懸命さと誠実さは、必ず人に伝わる。緋月は、数社面接を受ける事が出来、デッサンを見てくれた会社に内定を貰った。

 DTP、ウェブデザインを手掛ける小さな会社である。

目次 第二章-10