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 仕事納めの十二月二十八日、この日緋月は真の家に招かれた。真が入居しているマンションは、会社から一駅の所にあり、真が家の近くで仕事を選んだというのが良く解る。

 真がドアを開けるなり、小さな子供が飛び出して来た。

「パパ、おかえりー!」

 発音は明瞭ではないが、二歳でも言葉を話せるんだな。それにしても、小さくて可愛らしい。目元は真に似ているが、それ以外は似ていない。母親似なのだろう。

「お帰りなさい」

「おう、ただ今!」

 この人が真の奥さんか、落ち着いた雰囲気で美人だ。それにしても若い。真の二つ上だとは聞いていたが、大学に通い始めたばかりだと言っても、誰も疑わないだろう。

「あら、初めまして。あなたが緋月さんね。いつも真がお世話になっています」

「いえいえ、お世話になっているのは僕の方ですよ」

「ひづきー!」

(ゆう)(だい)君だったよな、初めまして」

 緋月は悠大を抱っこする。すると悠大は、緋月に向かってニコッと微笑んだ。どうやら、真と同じで人見知りをしないらしい。

 既に夕食の準備は出来ていた。蟹がメインの鍋で、緋月の大好物だ。緋月は以前、真に好物を聞かれたのはこの時の為だったのかと納得した。

 緋月は、久々に家族の団欒に触れて、ふと実家が恋しくなった。だが、実家に帰れば嫌でも雪那の事を思い出すし、気を遣われるのも嫌だった。だから正月は実家に帰らず、一人で過ごすつもりだ。事情は伏せて、実家に帰らない事だけを真に伝えると、真は暫く考えてから、今年の仕事が終わり次第自分の家に来いと言った。それが昨日の事だ。

 真は奥さんとも仲が良く、二人共子供に対して注げるだけの愛情を注いでいる。俺も雪那と結婚していたら、こんな家庭を築いていたのだろうか? 想像出来ない。いつかは結婚するつもりだったが、雪那と築く家庭を具体的にはイメージ出来ていなかった。現実と言うものは、常に想像を超える。良い意味でも、悪い意味でも。

 

 鍋をご馳走になった後、真の妻と息子は寝室に移動した。緋月と真は、食事を取ったリビング、ダイニング、キッチンを兼ねる部屋で二人になる。

「俺が人生に後悔していない理由、解っただろ?」

「ああ、存分にな。あんなに良い奥さんと息子が居れば、転勤なんて出来ないな」

「その通り。まぁ、飲めよ」

 真はビール瓶を両手で持ち、緋月のグラスに注いだ。だが緋月は首を振る。

「俺、まだ未成年だって。会社の歓迎会でも飲んでなかっただろ?」

「相変わらず真面目だな。じゃあ、来年のお前の誕生日以降は遠慮無く飲ませるからな」

 ビールが注がれたグラスを、真は自分の元に引き寄せる。緋月は、テーブルの上に置かれたコーラを飲む事にした。

「さて緋月、そろそろ話して貰おうか」

「何を?」

 緋月は誤魔化すように笑いながら、真の目を見る。だが彼の目に笑いは無かった。

「お前が苦しんでいる理由をだ」

 何となく、今日それを聞かれる気はしていた。真は会って一ヶ月だが、親友だと言える程に気が合う。だが雪那の事を話すのは、まだ少し早いような気がする……

 緋月が真から目を逸らし黙っていると、真はグラスのビールを飲み干して大きく溜息を吐いた。そして、再び緋月の顔をじっと見詰める。

「緋月、俺はお前の事を親友だと思ってる。だから何でも話をしたい。お前から話すのが嫌なら、先に俺の事を話させて貰うぜ」

 何を話すんだ? 自分の人生に後悔はしていないのに、何か苦しい事でもあるのか?

「何だ、その顔は? 俺に悩みがあるのかと訊きたそうな顔だな」

「あるのか?」

「失礼な。あるに決まってるだろ。俺はそれを隠すのが、お前より上手いだけだ」

 恐ろしい男だ。誰が見ても、真は人生を謳歌し真っ直ぐに歩いているように見える。俺の苦しみを見抜けたのは、自分も苦しみを背負っているからだったのか。

「話してくれ」

 緋月の言葉で真は黙って頷き、グラスにビールを注ぐ。一口飲んだ後、口を開いた。

「俺にはもう、両親が居ない。母親は、俺が小学校に入った年に、父親は高校を卒業する前に死んだ」

 部屋の気温が急激に下がった気がした。空気がピンと張り詰めている。

「俺の両親はな、駆け落ちして結婚したんだ。親や親戚とは連絡を取る事も無く、二人だけで俺を産み、育ててくれた」

 緋月は何も言わず、じっと真の声に耳を傾けている。コーラが入ったグラスに口を付ける事も無い。

「小さい頃からよく言われたよ。お前は、誰にでも誇れるような生き方をしなさいって。でも母親、否、母さんは病気であっさり死んだ。駆け落ちしてから十年も生きてなかったのにな。それからは、親父と俺だけで生活するようになった。俺は料理以外の全ての家事を一人でやった。料理だけは親父と一緒に作ってたんだ」

 両親が居ない事なんて、考えた事も無かった。俺も真と同じで、料理や家事をやっていたが、居なくなる事は無い。授業参観、運動会、家族での旅行、母親が必要な時は数え切れない程あっただろう。

「俺が成長するにつれて、親父とはよく喧嘩するようになった。俺は親父に似て、頑固だからな。中学から高校の初めぐらいまでは、毎日喧嘩だ」

 其処で、真はグラスを口に運んだ。注がれた半分程を勢いよく飲む。

「俺は高一の時から嫁、椿(つばき)と付き合ってた。同じ高校の先輩でな、俺が一目惚れしたんだ。親父には内緒だった。俺が高校に入ってから、親父はいつも俺に言ってた。いい大学に入って、楽に生きろって。俺は苦労した親を見てたから、勉強はちゃんとやった。成績はいつも、学年トップ十位には入ってたんだぜ」

 何となく、言いたい事が見えて来た。だが、此処で口を挟んじゃいけない。

「椿は良い女だ。包容力があるんだ、そう母親みたいに。俺は親父だけじゃ無く、友達や教師とも喧嘩してたんだけど、その度に椿が俺を穏やかな気持ちにさせてくれた」

 真は荒れてた時期があったんだな。誰にでもはっきりと物を言い、それでいて嫌な気持ちにはさせない今の真とは随分違う。それだけ椿さんが彼にとって大きな存在と言う事か。

「椿が大学に進学したぐらいから、俺と椿は肉体関係になった。今思えば、俺は高校で余り友達も居なくて寂しかったのかも知れないな。それで高校二年の冬、一月に椿の妊娠が解ったんだ」

 ほぼ同時に、緋月はコーラを、真はビールを喉に流し込む。

「俺はどうしていいか解らなかった。でも椿は何て言ったと思う? 『名前考えてね』だぜ。その言葉で俺の迷いは完全に消えた。その後は大変だったな。親父には殴られるし、椿の両親には泣かれるしで。俺は直ぐに高校を中退しようとしたんだけど、全員に止められた。働くのは高校を卒業してからにしろって言われてな」

 子供の年齢から逆算すれば解るが、実際に聞いてみると壮絶な経験だな。もし俺が真なら、同じ選択が出来ただろうか?

「俺が五月に十八歳になってから、椿と籍を入れた。その頃になると、親父も俺を許してくれていて、初孫を早く見たいって言ってた。結婚式は高校を卒業して直ぐにやるつもりだったんだ」

 グラスを持つ、真の手が震えている。緋月が一言、「無理するな」と言うと、真は苦笑を浮かべて「大丈夫だ」と返す。そして顔を上げた。

「親父は……、結局孫も結婚式も見られずに死んだ。最初に病院に行った時点で、癌が全身に転移してたんだ。でも親父は俺の前で動揺する事も無く、笑って言った。『お前にはもう、新しい家族があるんだから安心だ』って。何だったんだろうな? 親父と母さんの人生って。俺の為に生きてくれたのかなって思ったら、泣けてきてな……」

 緋月は立ち上がり、真の背中を叩いた。真は叩き返す事も無く、目を潤ませて頷く。緋月は話の途中で、真を慰めるのでは無く自分の全てを話そうと決めていた。真は、自分の人生に後悔が無いと言えている。その結論が出せたのだ。だから、慰めるよりも自分の事を話すのが、真に対する誠意だと緋月は考えたのだ。

 

 緋月は、雪那との出会い、ずっと一緒に生きて来た事、今の自分があるのは彼女のお陰である事、そして雪那が自分の事を想いながら死んだ事を話した。その後で、雪那を忘れられず、生きる為には自分を追い詰めて働くしか無いと話す。自分を愛してくれた舞苺の事まで話し終える頃には、日付が変わっていた。

 

 二人共、自分の抱えているものは全て曝け出して疲労していたが、何処か満ち足りた笑みを浮かべている。心地良い沈黙を破ったのは真だった。

「緋月、お前は旅に出ろ」

「突然、何を言い出すんだよ」

「一人での旅はな、『答』を見付ける為にあるんだ。お前は、どうやって生きればいいか、答が解らないんだろ?」

 その通りだ。俺は、生きているようで死んでる。自分を追い詰めて、人より頑張って、唯自分は生きていると言い聞かせているだけだ。

 真は話を続ける。緋月がこうして黙っているのは、自分の言葉に対する肯定だと知っているからだ。

「旅は人間を成長させる。俺は中学、高校の時に一人で遠くまで旅に出掛けたもんだ。後悔してる訳じゃ無いが、大学に入ったらバックパッカーになろうと本気で考えてたんだぜ」

「お前も答を見付けたかったのか?」

「そうだ。でもな、俺はもう見付けちまった」

 真が、椿と悠大が眠る寝室を指差す。その顔は幸せに満ちていた。

「考えてみるよ」

「断言する。お前は絶対旅に出る。俺とお前は似てるからな」

 二人は笑い合う。唯一無二の友を得た二人の話が尽きる事は無い。

 

 朝が来て、テーブルに両腕と頭を乗せて眠っている緋月と真を見て、椿は微笑みながらそっと毛布を掛けた。

目次 第二章-13