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少し落ち着いた螢華は、戸惑う澪音から絵が描かれた場所を訊いた。首都であるこの都市から、飛行機で北に九百km飛ばねばならないらしい。
研究室から出るまでに、彼女は決めた。
いつか必ず、今はもう咲く事の無い、向日葵の墓を訪れる事を。
それが、自分にとって何よりも大切な事だと直感したからだ。
螢華は美術研究室を出て、ゆっくりと力強く歩き出した。廊下を通り階段を下りる。此処は研究棟の三階なので、一階まで降りて中庭を抜ければ大学の門が見える。彼女が中庭を横切っていると、白衣を着た青年が正面から此方に向かって来た。
「螢華さんだよね、こんな所でどうしたの?」
悠陽さんだ。きっと、私が研究棟から出て来たのを見ていたのだろう。普通、音楽科の生徒は研究棟に行く用事も無いし。
「美術研究室に行ってたんです」
「そうか、目が赤いけど大丈夫?」
さっき泣いたからだ。心配してくれてるのかな。それなら、ちゃんと理由を話すべきだ。
「絵を見たら、感動して泣いちゃったんです。『向日葵の墓』って言う絵、ご存知ですか?」
私がそう言うと、彼は目を不自然な程大きく見開いて、私の顔を見詰めた。前に好きな花が向日葵だと言った時も、様子がおかしかった。前回は私の気の所為かとも思ったけど、今回は明らかに普通じゃ無いわ。
沈黙が暫く続いた後、悠陽は我に返ったように口を開いた。
「俺もその絵は好きだよ」
植物の研究者で、向日葵が一番好きなら絵を知っていても不思議じゃ無い。でもそれだけじゃ、さっきの反応を説明出来ない。
「何か、あの絵に思い入れがあるんですか?」
訊いてはいけないのかも知れない。それでも私は訊かずに居られなかった。もしかしたら彼も私と同じように、あの絵に対して並々ならぬ感情を抱いているのかも知れないから。
「君は鋭いな。解った、話すよ」
螢華は静かに頷き、彼の言葉を待つ。
「俺が植物研究者になったのは、『向日葵の墓』を見たからなんだ。俺の両親は二人とも学者で、父親は動物、母親は植物について研究していた。家には母親の趣味で、俺が生まれる前から向日葵の墓のコピーが飾られていたんだよ。ホログラムじゃ無くて紙の。俺はそれを見て育った。あの風景はもうこの世界には存在しないけど、もし存在したら素晴らしいと思うだろ?」
心からそう思う。ううん、思うと言うよりは強く願ってる。
「だから俺は、母親と同じ夢を追い掛ける事に決めたんだ」
「失われた植物の復活ですよね?」
「そう、俺が一番復活させたい植物は向日葵なんだ。種子の保存状態が悪くて、難航してるけど」
私が向日葵と絵について話した時、彼が示した反応は当然の事だったのだ。絵に描かれた向日葵が彼の人生を変えたのだから。
「もし、向日葵を蘇らせる事が出来たら、見せてくれますか?」
螢華の言葉を聞き、悠陽は柔らかな笑みを浮かべて、彼女の肩をポンッと叩く。
「ああ、勿論。真っ先に見せるよ」
悠陽はそう言って、研究棟へと歩き出した。
螢華は胸の高鳴りを覚え、振り返る。悠陽の背中は、必ず夢を実現すると言う自信に満ち溢れていた。しかし彼女が見ていたのは、何もかも包み込み、穏やかに見守ってくれるような、温かな彼の心だった。