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二年前、緋月と雪那が高校に入学した年。その年の七月十五日に、二人の関係を劇的に変化させる事件が起こる。それまでの二人は、まるで兄妹のような付き合いだった。一緒に居る事が当たり前で、二人で遊びに行ったり、勉強をしたりするのは二人には自然な事だった。当然ながら学校の友人からは、恋人同士だと思われており、緋月と雪那がそれを否定しても、誰もその言葉は信じない。どう見ても唯の幼馴染には見えなかったからだ。
七月十五日、その日もいつもと変わらない朝が訪れた。夏の強い陽射しの中で、雪那を待つ緋月。向日葵はもう直ぐ満開を迎えるだろう。
「雪那、今日も俺より遅い……」
緋月が溜息を吐く。中学に入った頃から、彼は雪那を「せっちゃん」と呼ばなくなった。雪那もまた同じである。子供っぽいから嫌だと緋月が言い出したのが切っ掛けだった。
「お待たせ。緋月、誕生日おめでとう!」
目の下に隈を作り、いつもより重そうな荷物を肩に掛ける雪那。緋月が雪那の鞄に目を遣ると、彼女はニッコリ微笑む。
「今年も、お弁当作って来たから楽しみにしててね。今年のは最高傑作よ!」
「ああ。昼が待ち遠しいよ」
小学校六年生の頃から、毎年緋月の誕生日には雪那が二人分の弁当を作っている。雪那の誕生日には、緋月は自分が描いた風景画などを彼女に贈る。二人が誕生日を祝う時は、「お金をかけずに、心を込めて」がキーワードだ。
二人はバス停まで手を繋ぐ。恋人だからでは無く、昔からの習慣だからだ。高校に向かうバスの中で、雪那はウトウトして何度も吊革を離しそうになった。
昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。緋月と雪那はクラスが違うので、集合場所を決めて集まる。普段、昼食は二人共クラスの友達と食べるのだが、この日は特別だ。
雪那のクラスは授業が少し長引き、昼休みに入って五分後に授業が終わった。雪那は二人分の弁当が入った袋を持って、廊下に飛び出る。
「もうっ、何でこの日に限って授業が長引くのよ!」
雪那は走りながら、小声で悪態を吐く。廊下では、何度も人にぶつかりそうになった。彼女は、校舎の屋上に向かっている。夏場の屋上は暑く、余り人が居ない。居たとしても、数組のカップルだ。雪那は、階段を一段飛ばしで上り始めた。校舎は三階建てで、一年生の教室は一階。屋上への階段は、時間を惜しむ雪那にとって長く険しい。二階を過ぎ三階に差し掛かる階段、其処で雪那は更に加速した。
「わっ、何この子!」
階段の折り返し地点には三年生が数名居た。雪那は必死に避け、頭を下げる。
「ごめんなさいっ!」
「気を付けなさいよ」
「はいっ!」
雪那は三年生が階段を下り始めると同時に、再び上り始める。屋上への扉が見える、その時だった。
「ガシャン」
袋が宙を舞い、階段に落ちたのだ。雪那が階段で躓(つまづ)いたからだ。雪那は直ぐに袋を拾い、中身を確認した。
「あっ……」
今にも消え入りそうな声。雪那は、それ以上一歩も階段を上れなくなった。緋月の為に作った弁当の蓋が開き、中身が袋の中に散乱していたからだ。凝った盛り付けのおかずも、緋月を祝う文字が描かれたご飯も台無しだった。彼女の頬を一筋の涙が伝い、彼女は踵を返した。しかし、その直後屋上の扉が開く。
「雪那、遅かったな。あれ、何で階段を下りるんだ」
緋月が近寄る。だが雪那は振り返らずに、無言で階段を下りる。長い付き合いなので、雪那の様子がおかしいと、緋月は瞬時に察知する。彼は彼女を追い越して正面に回った。雪那は、袋を胸に抱いて泣いていた。
「雪那、屋上に行くぞ」
首を振る雪那の背を押し、二人は屋上に出た。緋月は全て解っていた。弁当が入った袋と、彼女のスカートが汚れているのを見落とさなかったからだ。綺麗好きな彼女が、自分の誕生日に汚れた袋を持ってくる筈が無い。それに、スカートに付いた汚れは今朝は無かったものだ。
「俺はもうハラペコだ。さあ、食べようぜ!」
雪那は黙ったまま、袋を渡そうとしない。緋月が手を伸ばし袋を取ろうとすると、彼女は一歩下がり口を開いた。
「……ごめん、緋月。お弁当、落としちゃった」
「知ってる。見せてみろよ」
雪那は首を振ったが、緋月は素早く彼女から袋を奪い、中を見た。そして彼は微笑む。
「美味しそうだな。頂きます!」
呆気に取られる雪那に構わず、彼は袋の中に手を入れて弁当を食べ始めた。
「向こうで食べようぜ」
緋月は、屋上の隅に雪那を案内する。其処には石の段があって座る事が出来る。其処に座って、雪那はようやくいつもの自分を取り戻した。
「手で食べちゃ駄目よ! ちゃんとお箸はあるんだから」
「はいはい」
雪那は袋の中から、自分の弁当箱と二人分の箸を取り出す。雪那の弁当は、ゴムで括ってあるので無事だった。緋月は箸を使い、器用に袋の中に散らばった弁当の中身を食べる。雪那はそれを見て、胸の奥が焼けそうに熱くなった。
「ご馳走様、今までで一番美味しかったよ」
「緋月!」
雪那の中で何かが弾けた。彼女は目を潤ませて、緋月の首に抱き付く。緋月は雪那の頭を撫でた。周りには誰も居ない。もう直ぐ休み時間が終わるからだ。二人は、じっと目を見詰め合う。先に口を開いたのは緋月だった。
「俺は雪那が好きだ。今まで、曖昧な関係だったけど今日から恋人になって欲しい」
はっきりと、力強い言葉。雪那は大きく目を見開いて驚いたが、直ぐに返事をする。
「私も緋月が大好きっ! こんな私で良ければ、どうぞ宜しくお願いします」
二人共真っ赤な顔で微笑む。全然違う顔付きなのに、そっくりだ。長い時間を共有した者同士は、表情が似てくる。二人は正にそうだった。その時、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。すると二人共立ち上がり、自然と唇を合わせた。二人が人生で初めて交わしたキス。緋月からでも、雪那からでも無い。二人が同時に、そうする事を願ってのキスだった。それは、甘く蕩(とろ)けるようなものでも無く、あっさりした味気ないものでも無い。二人にとっては、ようやく到達出来たという感慨もあるが、これが自分達の在るべき姿だと思えるものだった。