17
翌年の一月下旬。緋月と雪那の受験が一ヶ月を切ったある日の事。この日、二人が住む地方は朝から大雪に見舞われた。厚い暗雲が垂れ込め、太陽の姿は見えない。
雪那は朝から体調が悪かった。体の芯から冷えるような感じがして、歩くのもやっとだ。それでも彼女はいつも通り緋月と共に登校した。雪那は高校を一日も休んだ事が無い。だから今更休むのは嫌だった。それに、受験前の緋月に余計な心配を掛けたくは無い。
幾ら精神力で体を動かしても、体調は悪化の一途を辿る。雪那はこの日、初めて授業中に眠ってしまった。
此処は何処だろう?
雪那は、寒々としたボックス席に一人で座っている。何の席かは解らない。窓があるが、真っ暗で何も見えない。
またか。
緋月の家に泊まりに行った日に、脳裏を過(よ)ぎった光景。あれから、何度も何度も私の夢に出て来る。夢だけじゃ無い、起きている時にもふとした瞬間に。
「もう止めて! この夢が何を示しているかは解ってる。その意味も受け入れる。だから、これ以上私を苦しめないで」
雪那は、席に座る自分を何処か遠い所から見ており、その自分に向かって叫んでいるのだ。だが座っている雪那は何の反応も示さない。唯虚ろに窓の外を眺めているだけだ。
長い。いつもなら、とっくに夢から醒めている筈なのに。何も起こらず、現実に引き戻されるのに。今日は夢が終わらない。
あれ? 左に窓が見える。手も足も動かせる。目の前には二人掛けの席。私も、二人掛けの席に一人で座ってる。そうか、遠くから見ていた自分が席に座っている自分の中に入ったのか。でも……、どうして?
音は聴こえない。でも、この席は規則正しく小刻みに揺れている。窓に触れる。冷凍庫の内壁のように冷たい。窓の向こうはやっぱり見えない。漆黒の闇……
雪那はこの場所が何処なのかを確認しようと立ち上がる。その時だった。
「ドォォーン!」
無音の空間を引き裂く轟音、そして衝撃。雪那は、目の前の椅子に叩き付けられる。
「キャアァァ……!」
その声は、雪那の教室中に響いた。夢で発した声が、そのまま現実でも発せられていたのだ。教室が静まり返り、誰も微動だにしない。その中で真っ先に動いたのは美菜だった。
「雪那、どうしたの? しっかりして!」
美菜が雪那の体を揺する。だが雪那は反応を示さない。脈拍もあり、呼吸もしているが意識が無い。美菜がそれを教師に伝えると、教師は直ぐに電話で救急車を呼んだ。
騒然となる教室。他のクラスの生徒も出て来る。その中に緋月の姿を見付けた美菜は、彼の元に駆け寄り事情を説明した。緋月は蒼白な顔で雪那の元へ走る。
泣きながら雪那の手を握る緋月、目を潤ませて雪那を囲む雪那の友人達。
救急車には、緋月と雪那の担任が同乗した。雪那の両親には、緋月が携帯で連絡をした。
心配する周囲の人間を他所に、雪那はまだ夢を見ていた。
体が動かない。痛みも何も感じない。ううん、感じるのは寒さだけ……。全身が凍りそうだ。私は何処に横たわっているの?
真っ白な床に敷かれた、真っ赤な絨毯(じゅうたん)の上かな。解らない……。目が殆ど見えないから。
「雪那……、雪那!」
緋月の声? 私、動けないよ。でも、緋月の声が段々近くで聴こえるようになる。何だか、体が温もって来た。視界がクリアに……。あれ? 真っ白な床も赤い絨毯も無い。
「雪那!」
あぁ、緋月。会いたかった。一番見たかった顔が目の前にある。
ゆっくりと目を開けた雪那の手を、緋月がギュッと握る。雪那の周りには、緋月だけで無く、仕事を抜けて来た雪那の両親、放課後に駆け付けた美菜も居た。教師は、医師に告げられた情報を持って学校に報告の為に帰っていた。
医師が診察した結果、雪那には何の異常も見られず、深い睡眠状態にあるだけとの事で、念の為点滴を付けていたが、医師の診断通り数時間で目覚めたのだ。
雪那はその日の内に退院した。家に帰って、夕食も普通に食べたので両親と緋月に呆れられた。何も心配要らないから、と雪那は微笑み自分の部屋に戻る。部屋に戻った後、彼女は珍しく部屋の鍵を掛けた。
私は手紙を書かなくちゃいけない。証を残す為に。懸命に生きて、生きて、緋月を誰よりも何よりも深く愛した証を。
全部思い出した。そして感じた。緋月……、貴方の想いを。
怖くて寂しくて堪らない。でも、貴方はもっと苦しむだろう。それだけが、私には耐えられない。だから泣くのを許して……
雪那は声を殺して涙を流す。その雫が手紙に落ち、インクが滲む。それでも彼女は、決して手を止めなかった。