第九節 返照
見渡す限りが夕紅(ゆうくれない)に染まっている。丘も、家も、人も。悠然と構えているように見えて、何処か焦燥(しょうそう)を感じさせる光景だ。
リバレスを身に付けたルナは歩く。堕天した場所を目指して。
「(人間界の夕焼けも美しいな)」
「(そうねー。広い上に、海もあるもんね。遠くに来たって感じがして、少し寂しいけど)」
天界は、一辺が五十kmの正方形の大地の上に創られている。人間界は、半径五千kmの球体だ。スケールが違い過ぎる。
「実際に、離れているからな……」
距離だけで無く、力も、文化も。
「ルナさんっ! 来てくれたんですね!」
フィーネがルナを見付け、満開の花のような笑顔で、手を振っている。
雰囲気が変わった。外見上の変化は、目が涙で腫れ、背中まで伸びた髪が所々乱れているぐらいだ。根本的に違うのは、「少女」では無い事だ。甘えを捨て、しっかりした芯を持った、「女性」になっている。美しい、そう感じた。だが、彼女に呑まれる訳にはいかない。
「初めに言っておくが、私は君の話を聞くだけだ。人間の為に戦うつもりは無い」
彼女は一瞬、表情を曇らせて俯いたが、直ぐに顔を上げた。思い詰めた表情。
「そうですか……。解りました」
「(あれっ、物分りがいいわねー)」
どうした事だ。私の考えを変えさせるんじゃないのか? その程度で諦めるのか。
怪訝(けげん)な表情をするルナの前で、突然フィーネが剣を抜いた。ルナは彼女を睨む。
「そんなもので私を脅すつもりか? 失望したよ」
リバレスも危険を感じ、元の姿に戻る。
「自殺も無駄よー! あなたが死んでも、わたし達は動かない」
震える手で剣を握るフィーネ。万が一彼女が切り掛かって来ても、余裕で避けられる。
「違います。私が……、魔物を倒しに行くんです! 例え一匹でも倒せれば、その分誰かが救われるから」
何を言い出すんだ、そんな事が出来る筈が無い。その前に殺される!
「馬鹿な真似は止せ! 命を粗末にするな」
私は、彼女の剣の刃を素手で掴んだ。掌から、薄く血が流れる。
「いいえ、止めないで下さい! あなたが助けてくれなくても、私は今日旅立つ覚悟をしていました。私が動かないと、何も変わらない。動いても変えられないかも知れない。でも、少しでも誰かを助けられる可能性があるなら、私はそれに賭けたいの! どうしても止めたいなら、今此処で私を殺して下さい!」
まさかこれ程とは……。私と同じ、否、もっと強い心。何が下等なものか。こんな想いを抱いて生きている女性が居る。胸が詰まった。この剣は要らないな。私は、剣を彼女の手から引き離す。その時、彼女の手に触れた。薄く、冷たい手。細い指。剣は持つだけでやっとだろう。
剣を失った彼女は、その場に座り込み、泣(きゅう)哭(こく)する。
「うぅ……、あなたは、私から武器まで奪うんですか? 私は、一体どうすればいいの!」
無心に泣く彼女は、まだ少女の面影を残している。私よりも小さくて、私よりも遥かに若いフィーネ。私の完敗だ。
「フィーネ、君は何でもすると言ったな?」
手を差し伸べる私を、フィーネは怪訝な顔で見る。真意を測りかねているらしい。
「私とリバレスが、この世界で不自由なく暮らせるようにして欲しい。具体的には、食料や情報、宿などの提供だ」
「え……? それじゃあ」
彼女の手を引き、起こす。そして私は微笑み、頷いた。
「助けるから、もう泣くな」
「は……、はいっ!」
私の手を握り「ブンブン」振り回すフィーネ。まるで、玩具を貰った子供のようなはしゃぎ方だ。
「はあぁ……。相変わらず甘いんだから」
溜息を吐き、フラフラと私の肩の上に乗るリバレス。彼女はさり気無く、私の掌の傷を治癒した。お前はいつでも、私を助けてくれる。恩に着るよ。
「フィーネ、私は人間に被害を与える魔のみを排除する。それで構わないな?」
「はい! 張り切って、お二人のお世話をさせて貰いますね。手始めに、今晩は美味しいものを作りますよ!」
無垢(むく)な笑顔で、彼女は何度も礼を言った。
この日の夕飯は、昨日よりも美味しく思えた。明日からは、全く異なった日常になる。魔と戦う事を決めたのだから。だが正直、不安よりも期待が大きい。囚人のような生活を強いられた天界とは違い、この世界には無限の自由がある。
仄(ほの)かな月影が寝室の窓から差し込んでいる。二百年、案外短いかも知れないな。