第十九節 際涯(さいがい)
漂流三日目、ルナは船窓から差し込む、朝陽に照らされて目を覚ました。フィーネは、ルナが起きると朝食を食べるように言ったが、彼は断った。
この船はルトネックを出てから、ずっと南西に進んでいる。何も問題が無ければ、今日中にはリウォルに着くだろう。今日は快晴で雲一つない。風も吹いている。ルナは、自分が持つ食糧を全て食べた。耐え難い程空腹だったからだ。
ESGを摂りたい。ルナはその衝動を抑える。堕天中にESGを摂ると、堕天の意味が無くなり、天使の資格を剥奪(はくだつ)されるからだ。
「魔物です!」
突如、甲板で体操をしていたフィーネの声が響いた。ルナはリバレスを起こし、船室から甲板へ飛び出る。
上空を舞い、この船を取り囲む三体の魔。体長は二m程で、烏に手足が生えたような姿。
「低級魔だろう。フィーネは船室へ!」
私がそう叫んだ瞬間、魔が三体全て急降下し私に襲い掛かる!
「くっ!」
何とか剣を抜き攻撃を捌いたが、私はよろめく。油断大敵だ!
「グァァッ!」
奇妙な叫びを上げながら、魔が私に追撃する!
「初級神術『落雷』!」
リバレスが、魔の一匹に雷を落とす! 魔は絶命し、メインマストの帆を破って海に墜落した。
「ルナさん!」
船室から剣を持って現れたフィーネ。余計な事を……。咄嗟に二匹の魔が、フィーネに向かって行く!
「中級神術『天導氷』!」
氷の渦が、二匹の魔を呑み込む!
「ギィヤァァ……!」
一匹が凍りつき、最後尾のマストを圧し折って、粉々に砕けた! もう一匹は?
「フィーネ!」
天導氷を避けた一匹が、フィーネに向かって疾走している!
「ガキンッ!」
鈍い音が響く! 何が起きた? 甲板に転がる剣の破片、緑の血を流して天空に逃げ去る魔。フィーネは? 「ボチャンッ」という音が、船の下で聞こえた。
「フィーネッ!」
魔に一撃を与えたフィーネが、反動で海に落ちたのだ! 冬の海は冷たい。私は、躊躇う事無く飛び込んだ。一瞬で、体が芯まで冷える。私は、全身を「焦熱」で覆う。フィーネは、手足をバタつかせて今にも溺れそうだ! 直ぐ行くからな。
「リバレス、ロープを!」
「解ったー!」
私は、フィーネを片腕で抱え船から垂らされたロープを上った。
「ルナさん……、大丈夫ですか?」
自分よりも私の心配をするフィーネ……。私は思わず彼女を抱き竦めた。
「無茶をするなって言ってるだろ! 私にはフィーネが必要なんだ」
目頭が熱い。彼女の顔が滲んで見える……
「ごめんなさい。私も……、ルナさんが大切ですよ……」
冷えた体を震わせながら、フィーネは私に身を預けている。目を瞑(つむ)って、微笑みながら。
リバレスが暖炉の火を熾(おこ)すまで、私達が離れる事は無かった。
漂流四日目の夜。昨日、メインマストの帆と最後尾のマストを破損した所為で、未だリウォルには着いていない。昨日から、同じ所をぐるぐる回っているような気がする。
「まだ陸に着きませんね……」
甲板の椅子に座るフィーネが、ポツリと呟いた。
「そうだな……(それより)」
空腹の為、ボーっとする。何とか、話す事も考える事も可能だが、それもいつまで続くか解らない。フィーネは元気が無い私を気遣って、話を振って来る。
「ところで、天使様って普段はどんな生活をしているんですか?」
「君が思ってる程、良い生活はしてないよ。短い命を懸命に生きてるフィーネみたいな人間の方がずっと、生きてる実感が沸いて幸せだと思う。私達は毎日同じ事……、勉強や儀式の繰り返しで、生ける屍(しかばね)のようだった」
少なくとも、天界に自由が訪れるまでは。
「そうですか? 私には、あなたがそんな世界で生きていたとは思えません。ルナさんは私に元気をくれます。ルナさんが傍にいると、私は何でも出来そうな気がするんです! だから私は、あんなに無茶な行動をしてしまうのかも知れませんね……。そんなに、素晴らしい人、いえ、天使様が生ける屍だなんて」
月影の下でも解るぐらい、フィーネの顔が赤い。それを見ると、私も気恥ずかしくなる。
「はははっ……。フィーネは変わってるよ。少なくとも、天界で君のように……、自分の命に感謝し、住む世界と住人を想う者は居なかった。君の考えは、私を良い意味で変えてくれた。ありがとう」
今の正直な気持ち。伝えなければいけないと思った。
「そうねー、フィーネは良い子だもんねー! ね、ルナ?」
リバレスが物言いたげに私を見る。
「あぁ、そうだな。フィーネは良い子だ」
上擦(うわず)った声を出してしまった。全く……、余計な事を。
「そんな……、私の方が感謝しても全然足りないのに。ありがとうございます、ルナさん、リバレスさん!」
彼女は私の手を取りながら、私達に頭を下げる。もう、そんな礼儀は不要だろう。
「フィーネ、そんな他人行儀はもう必要無い。私達は呼び捨てで構わないよ。それに、敬語も要らない」
リバレスも頻(しき)りに頷いている。
「え……、ええっと、それは無理ですよ。恐れ多いです。でも……、この戦いが終わったら、そうしてもいいですか?」
「それじゃー、ルナとフィーネの為にも早く戦いを終わらせないとねー!」
またチラッと私の方を見る。お節介な奴だ。
「ああ。その為には、もっと頑張らないとな!」
フィーネは私の目を見て、はにかみながら頷いた。
眩暈がする。朝も、昼も解らない。今日は、何日目だ? ああ、六日目だ。
「フィーネ、リバレス。私は限界のようだ……」
二人の気配が近くにある。視界がぼやけて、何も見えない。音も遠い。
「どうしたんですか? ルナさん!」
「……実はルナ、空腹なのに殆ど何も食べてないのよ」
「ルナさん、あなたは空腹にならないと!」
彼女の仄(ほの)冷(つめ)たい手が、私の手を握っている。滑らかな絹のような感触……
「……心配要らない。今から一時的に、身体の機能を停止させる」
「ダメ! 『停止』の神術を自分に使うのは危険よー!」
停止の神術は、対象の時間進行を遅らせ動きを止める。だが自分に使うと、自分では神術を解除出来ない。精神エネルギーが枯渇するまで、停止は継続する。もし、精神エネルギーが枯渇すれば、死ぬ。
「リバレス、街に着いたら……、停止を解除してくれ。全く……、不便な体だ」
もう、二人の声は聞こえない。私は、薄れ行く意識の中で「停止」を発動した……
私は見た。身体機能が停止する直前、ハルメス兄さんが私に向かって微笑むのを。千百年前と変わらない、力強い笑みを。