第十二節 狡猾
三人は森へと足を踏み入れた。この森自体が、果樹の集まりだ。だが、奥へ進む毎に木は鬱蒼と生い茂り、日光が差し込んで来ない。此処の暗さは夜のようだ。
更に歩くと果樹が途切れ、原生樹に変わった。手付かずの森から流れてくる、肌に重く纏わり付く嫌な空気。それをルナは察知した。
「この奥に、きっと魔物がいる」
恐らく、森を流れる小川の水源に。
「解りました……。気をつけます」
森の光が徐々に失われていく中で、ルナの後ろを歩くフィーネは何かに躓き、ふと足元を見る。其処には赤く可憐な花が咲いていた。原生林にしては派手な色彩に目を奪われる。
「綺麗な花」
その花を摘もうと腰を下ろす。そして、彼女は何気なく周りを見渡して見た。
「……あれ? ルナさん、リバレスさん!」
二人の姿は無かった。彼女は立ち上がろうとするが、視界が霞みその場に倒れる。
「私は……、どうなるんだろう」
彼女の意識は其処で途切れた。
此処は、レニーの森の最奥に位置する水源だ。だが、水は本来の清澄さを失い毒々しい紫色を呈している。
「ようこそ、お嬢さん……」
ノイズが混じった、不気味な低い声。両手両足を蔦(つた)で縛られたフィーネが目を覚ます。
「だ……、誰!」
彼女は声の主を睨み付けた。異形の者……。一見巨大な植物にも見えるが、体中がボコボコと膨らみ、赤い血管のようなものが張り巡らされている。頭は毒々しい赤色の花のようで、其処に飛び出た目玉と裂けた口が見える。
「人間にようく効く毒を作る『魔』だよぉ。ククク……」
「お前が、私の村も襲ったのね!」
彼女は、食い込む蔦の痛みを無視して体を揺らし、叫んだ。
「村? 沢山滅ぼして来たから、解らないなぁ。クククッ」
「私は、お前を絶対に許さない!」
フィーネは歯を食い縛り、唇を噛んだ。一筋の血が彼女の頬を伝う。
「まぁ、そう言うなよ。一つ取引をしようじゃないか。オレは、今後も人間を毒で殺し続ける予定だ。だがお嬢さん、あんたがこの果実を一つ食べ切れたら、オレはこの世界から撤退する。……どうだい? 悪い話じゃないだろう」
林檎(りんご)程の大きさの赤黒い果実。吐き気を催す、刺激臭が漂っている。
「本当に……?」
彼女は自分が無力なのを知っている。その果実を食べれば、自分が命を落とすと解っているが、それで他人を救えるならば。そんな気持ちになっていた。
「魔は一度言った事は取り消さない。約束を破るぐらいなら、死んだ方がマシだよぉ……」
「……解りました。食べます」
蔦の拘束が解ける。彼女は、魔が差し出す果実を受け取った。
「さぁ、食べるんだぁ!」
フィーネは目を閉じ、思い切ってその果実を齧る。
「う……」
彼女は果実を落とし、俯(うつぶ)せに倒れた。血の気が引いて行く。
「バカめ! 一口で致死量だぁ。ヒャハハ……、愉快で堪(たま)らないねぇ」
フィーネは自分の愚かさを呪い、激しい憤りの中で意識を失っていった。
「そうか、愉快か。それなら、笑いながら死ぬがいい!」
剣を抜き、こちらに駆け寄る人影。迅い!
「誰だ!」
「貴様に名乗る名など無い。フィーネが毒で死ぬ前に消えて貰うぞ! リバレス、フィーネを頼む」
「解ったー!」
ルナは剣の切っ先を魔に向ける。リバレスは、フィーネの毒の進行を遅らせる処置を開始した。
「オリハルコンの剣に、天翼獣……。お前が、例の堕天使か。……許して下さい!」
突如その場に跪(ひざまず)く魔。ルナは呆気(あっけ)に取られたが、やがて剣を下ろした。
「許して欲しいなら、フィーネと人間にかけた毒を解除しろ」
ルナが一歩近付く。その時だった。
「馬鹿が!」
魔が、頭から大量の毒霧を放出する! くっ……、目が眩(くら)む。卑怯な!
「死ね!」
魔から触手が伸びて来た!
「ルナ、保護!」
触手は私の脇腹に直撃したが、リバレスの神術で浅い傷で済んだ。もう、騙されない。
「貴様に情けをかけた、私が馬鹿だったよ」
「グアッ……!」
魔の触手を二本切り落とした。残りは胴体と触手が二本と頭か。
「オレが堕天使如きに負けるか! 死ね!」
地面、空気、水、周りの木々……、全てが毒化していく。
「ルナ……」
リバレスまでもが、毒に侵されていた。私も体の力が抜けていく。時間が無い。
「焼き払ってやる。高等神術『滅炎雨獄(めつえんうごく)』!」
この神術は、「滅炎」を広範囲に広げたもの。半径十mが火の海と化す!
「ギィャァァ……!」
炎の中、のた打ち回る魔。やがて、火は消えた。
「や……、止めてくれ。許して下さい……」
高等神術で黒焦げになっても、まだ生きているとは! こいつは中級魔、否、上級魔かも知れない。毒はまだ消えていない。生かしておくと危険だ。
「一度は許そうとした。だが、二度目は無い。転生したら、正直に生きる事だ」
「ま……、待って」
私は、躊躇(ちゅうちょ)せず魔の首を切り飛ばした。自分達の命を守る為に。
「ククク……。お前の事は獄界に伝わっている。覚悟しろぉ!」
それが、奴の最後の台詞だった。厄介(やっかい)だな……。だが、私が決めた事だ。
毒が消えていく。ルナ達の毒は勿論、大地、水、木々、街……。魔が齎した毒は全て消えた。ルナとリバレスが深呼吸していると、フィーネが目覚める。
「う、うぅん……」
私は彼女を抱き起こし、目を開けるのを待った。言いたい事がある。
「……ルナさん?」
「馬鹿! 一番憎んでいる相手を、どうして信じる? 私が来るのがもう少し遅ければ、死んでいたんだぞ!」
私は、彼女を揺さぶる。そうせずには居られなかった。
「ごめんなさい。私一人の命で、沢山の人が救われるって思うと……」
俯き、涙を浮かべるフィーネ。だが、はっきり言っておかなければ。
「考えが浅過ぎる。魔は人間そのものを滅ぼそうとしているんだ。たった一人の人間の言葉に、耳を貸す筈がないだろう? これからは、軽率な行動を控えるんだ!」
「……解りました。でも、どうしてそんなに詳しい事まで知っているんですか?」
「余計な事は、訊いちゃダメよー。わたし達は『協力』してるんだからね」
その通りだ。彼女に、深く知られてはならない。フィーネは黙って頷き、立ち上がった。そして彼女は柔らかく微笑む。
「助けてくれて、ありがとうございます!」
「ああ。それより私は空腹だ……」
私がそう言うと彼女は、「腕によりをかけますよ」と言わんばかりに、袖を捲(ま)くった。
さっきまでの霧が晴れ、空から眩しい光が覗く。